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千鹿頭神・洩矢神

千鹿頭神社
有賀千鹿頭神社

 諏訪には千鹿頭(ちかとう)神社が五社あります。社殿が一番大きいので代表にお願いした諏訪市有賀の「千鹿頭神社」祭神は、建御名方命の御子神「内県(うちあがた)神」となっています。
 諏訪史談会『諏訪史蹟要項』では、「内県神と申し、内県の主宰者。一に千鹿頭神(諏訪神社嘉禎三年旧記)とも云う」とあります。諏訪大社社務所『諏訪大社復興記』では、〔独立せる摂末社〕として、祭神を「千鹿頭神」としています。なぜ、「建御名方神vs洩矢神」の系譜である「内県神vs千鹿頭神」と相反する祭神が混在しているのでしょうか。

千鹿頭神・洩矢神の系譜

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に『神長守矢氏系譜』があります。洩矢神の二代目守宅神から、千鹿頭神・児玉彦命の一部を転載しました。(読み)は参考程度としてください。

【守宅神】生弖有霊異幹力、代父弖負弓矢従大神遊猟得千鹿、有一男名之曰千鹿頭神(生まれて霊異幹力あり、父に代わりて弓矢を負い、大神の遊猟に従い千の鹿を得る、一男有り、この名曰く千鹿頭神)

【千鹿頭神】(前略)千鹿頭社 諏訪郡の内鎮座、有賀・上原・埴原田・横吹・休戸、東筑摩郡神田・林両所に於て祭る、同地宇良古山に鎮坐す、往古は郡内三十余村の祭神なり、后神を宇良古比売命と云、口碑に伝ふ由同地に命の社あり、

【児玉彦命】大神御子片倉辺命之御子也、大神之御言(みこと)之随(のままに)千鹿頭神之跡乎(を)(つぎて)、主祭政守達神御子美都多麻比売神乎(を)娶弖(めとりて)八櫛神乎(を)(うむ)

最下段のリンク参照

 高部歴史編纂委員会『高部の文化財』の〔神長は前宮にいた〕の項では、上記の【児玉彦命】を挙げ、下記のように解説しています。

ここではっきり洩矢の血筋は絶え、祭祀の形式だけが守矢に伝わってきたことがわかる。
 こうして見ると、神長は神氏に従って前宮に来、すでに祭祀の形の整っていた洩矢の祭祀のやり方を学ぶため、千鹿頭神と数年を過ごしおよそのことが分かった段階で松本へ追いやったと思われる。千鹿頭神のいた宇良古は、当時は諏訪の北の境で、彼は更に奥州に追われたと伝えられる。
最下段のリンク参照

 「改訂版」とも言える『続・高部の文化財』なので重複した内容になりますが、「神長の先祖」を系図で解説しています。

洩矢神系図
 守矢家一子口伝による系図によれば、四代目は児玉彦命で建御名方命の孫にあたる。建御名方命の子、守達神の娘御津多麻比売神を妻にして、五代目八櫛神を生んでいるから、洩矢族の血はここで絶える。三代目の千鹿頭神は、諏訪でも五社(往古は郡内三十余村)に祭られているが、東筑摩郡宇良古山に鎮座。さらに東北方面に社があるので、逐(お)われたのではないかという説がある。

 以上、明治初期に書かれた神代の系図「神長守矢氏系譜」をどのように扱ってよいのかわかりませんが、建御名方命と洩矢神の関係をうまく説明しています。

千鹿頭神社の総本社

 同『諏訪史料叢書』収録の『有賀千鹿頭社文書』に「板垣信方奉書(写)」を見つけました。冒頭に挙げた諏訪市「有賀千鹿頭神社」が保管している文書です。板垣信方は、“身近な(古い)ところ”では「千葉真一が演じた武田方の武将」と紹介すれば、…思い出してくれるでしょうか。時代は、永禄八年ですから1565年の文書です。

板垣信方奉書 一行目に「有賀之千賀多本社」とあるのは、「有賀千鹿頭神社」のことです。続いて「有賀千鹿頭社の賦役は、同郷(有賀村)・上原村・埴原田村・筑摩郡神田村」と書いてあります。
 これを読んで、現在は「村」から「字(あざな)」に代わりましたが、茅野市の上原と埴原田・松本市の神田に千鹿頭神社が“現存”している理由がわかったような気がしました。本社から千鹿頭神を勧請した「各支社の千鹿頭神社」は、長い歴史のうねりにもまれながらも、「本社・有賀千鹿頭神社」を頂点にした強い結束力で生き残ったのでしょう。
 後になりましたが、文面は「まえまえのぶんより、そういあるべからず、おんげちにまかせ、くだんのごとし」と読んでみました。年代表では「永禄8年は乙丑」なので、「乙寅」は誤植としました。

千鹿頭神は宇良古山へ

 「千鹿頭神は、諏訪から筑摩(松本市)の宇良古(うらこ)へ追い払われた」という話があるので、松本の千鹿頭山へ行ってみました。興味のある方は、下記の「千鹿頭神・宇良古山・宿世結神・逢初川」をご覧ください。


‖サイト内リンク‖ 「千鹿頭神・宇良古山・宿世結神・逢初川」