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宮川 御頭御社宮司社 茅野市宮川 22.11.11

 「宮川」といっても広いのですが、「御頭御社宮司社」は一社しかないので「宮川御頭御社宮司社」としました。旧村名の由来となる「宮川」の近くに鎮座していますが、神社前に立つと川そのものは見えないので、中央自動車道の高架脇と言った方が実感があります。
 宮川村は明治の合併時に成立した村名です。この場所が合併前の茅野村・中河原村・安国寺村のどの村に属するのかは、まだ調べてないのでわかりません。御頭郷を束ねる大村に建てられるのが御頭御社宮司社ですから、茅野市の名前の元となった茅野村でしょうか。現在も、諏訪大社の神職が参向し「御頭御社宮司社祭」を斉行しています。

茅野御頭御社宮司社「御柱」 この神社は、高速道路建設のために現在地へ移転しました。左写真では鳥居の笠木と貫の右に中央道の高架がわずかに写っているように、移転と言っても100m以内と思われます。
 三年ぶりの再訪は御柱年とあって、まだ真新しい御柱が建っていました。モミジの見頃のピークは明後日と思われるタイミングでした。

茅野御頭御社宮司社本殿 覆屋の格子の間から撮った本殿です。社殿はこれしかなく、境内社もありません。
 この御頭御社宮司社は長野県神社庁のリストにはありませんから、地域の人達でひっそりと祀っているのでしょう。本来は御頭を受けた年のみに“真価を発揮”する神社ですから、法人化をしなかったと思われます。

茅野御頭御社宮司社 この大木は御社宮司社の境内木ですが、社殿の移転で、旧境内地のどの場所にそびえていたのかはわかりません。
 「落雷で枯れた」と聞いていましたが、内部が炭化していることから、炎上して枯れ死にを早めたのでしょう。すでに朽ち果てる寸前で、木質はスカスカというかボロボロなのでキノコも生えていません。この景観だけが当時を偲べる唯一のものになってしまいましたが、それが消え去る日もそう先ではありません。

御射山道

神輿と拝礼8.26 御射山祭では、社前の道が御射山への神輿の御渡道に当たります。
 神輿を担いだ御射山神戸の人々は、この御社宮司社の前に神輿を安置して拝礼をします。神事は行われないので、神様と人間が御社宮司社の境内を借りて一服ということでしょう。因みに、この後は坂室の「酒室神社」へ向かいます。

中世の「七御社宮神」

 嘉禎4年(1238)の『祝詞段』に、この辺りの神社が登場します。

茅野川に亀石・坂森明神、茅野に鎮守・鎮守千ゴ宮氏神明神、小飼に七御社宮神・立矢にならえ五リョウサンソン…、

 消去法で残ったのが「小飼に七御社宮神」です。「まとめて七社」ということなので、特定の御社宮司社のことではありません。

古絵図 余りにも古い時代のことなので、グッと下がった江戸時代の「茅野村」を諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』で開きました。左がその一部です。
 中央部に「七御社宮神」と書いてあり、ようやく解読できた右の「此五ツ」から、で囲った5社が御社宮神となりました。範囲を広げると2社が見つかりますから、合計で「七御社宮神」となりました。この中で、中央の、両脇に木があるのが宮川御頭御社宮司社でしょう。

 次は「子飼(こかい)」です。“現在も”、前回の御柱祭で「本宮一之御柱」を当てた「ちの・宮川」地区の抽選総代「小海」さんがいます。また、安国寺には「こかい呉服店」がありますから、私は「子飼・小海」の地名は宮川の安国寺の近くとしていました。『祝詞段』の時代では、御頭御社宮司社がある一帯も「子飼」に含まれていたということでしょう。

江戸時代の御頭郷

 茅野市『茅野市史』では、親郷は「茅野郷」で、枝郷は「上原神戸村・上青柳村・下青柳村・田沢村・東堀之内・湯之町の内」でした。「湯之町」は下諏訪宿ですから、必ずしも同一地域でないことがわかります。これで、今回取り上げた御頭御社宮司神社が、親郷である茅野村の御頭御社宮司社であったことが確定しました。

御社宮司遺跡

 この辺りは宮川の洪水常習地でしたが、古くから人が住み着いていました。

御社宮司遺跡は縄文時代から中世・近世・近現代にわたる遺跡であり、(中略)この遺跡は中世諏訪神社上社の重要祭事である御射山祭に関連し、遺跡に沿って御射山道(前宮から酒室神社の中間)が通じている。
茅野市『茅野市史 中巻』

 坂室バイパス建設に伴う発掘では、「御社宮司遺跡」の中世の遺構から馬具の装飾金具が出土して話題になりました。「神社に奉納されるような優れた鞍を飾る遺物だったと考えられる」ことから、諏訪神社との深いかかわりが指摘されています。しかし、この神社との関連性は「名前だけ」のようです。