諏訪大社と諏訪神社トップ / 上社散歩道メニュー /

所政社・所政大明神 諏訪大社上社前宮

 カメラを抱えた男が現れたからでしょうか、小さな祠が一瞬ですが輝きました。しかし、彼は、こぼれた陽の揺らめきに秋風を感じただけでした。

所政社

所政社 道を挟んだ「子安社」は、その規模と社号標で一目瞭然です。しかし、山の斜面にただ置いたような「所政社(ところまつしゃ)」は、古色が乗った石祠とあって背後の色にとけ込んでいます。幸いにも安国寺史友会が設置した「案内板」があるので、上を仰ぐだけで指を差せます。

古書には「所末戸社」とも「政所社」とも書かれてあり非常に盛大な祭りが春秋の二季に行われたといわれているが江戸時代に至って全く廃れてしまった。かつては旧暦三月未(ひつじ)日に稲の穂を積みそのうえに鹿皮を敷いて大祝の座とし假家(仮の家)をかまえて神事を行っており、大祝が定めで参詣する社十三ヶ所(上十三所)のうち第一とされてあるからこの社の重んぜられたことがわかる。古くは上伊那の藤沢郷によって社殿が造営されていた。

 アンダーラインの部分は『諏方大明神画詞』にありました。

(ひつじ)日、所末戸社十二所第一神事、假(仮)屋を構えて稲穂を積みて、其の上に皮を敷きて大祝布衣の座とす、神使四人上搨シ垂五官浄衣平座に付きて盃酌三献の後、御室にかえりまいる、
『諏方大明神画詞』「47」

 10人も座るのは不可能ですから、下の「高道」の脇に仮屋を造ったのでしょう。「御室」の候補地の一つは(当時はなかった)「子安社」の辺りと言われています。

 諏訪史談会『復刻諏訪史蹟要項・16』に「所政社」の項があります。

 この社も楓宮(鶏冠社)と同じく社号の混乱してしまった一つである。画詞に「所末戸」とあり、年内神事次第旧記には「所政」若しくは「ところまつ」とあらわれて来るから「トコロマツ」でなければいけないのである。然るに現在は「所政社」と書いて「マンドコロシャ」と呼んでいる。社号混乱の原因は、徳川時代に於いてこの社は政所家の御預所であった。それが累をなして正しい称呼の忘れられた時に文字の上から錯ったと考えられるのである。
 現在の本宮の摂末社遙拝所は文政に出来たものであるが、その掲額にも「政所社」と書しているから、その誤れるも又久しき以前からである。(後略)

 享保18年の『諏訪藩主手元絵図』には「トコ松」と書かれています。他所にある「ホクラ」と書かれた祠の絵はありませんから、この時代にはすでに名前だけとなっていたようです。ただし、その上に描かれた「峯タヽイ」と同じように、松のような枝振りの独立樹が描かれています。伝承または記憶の中の「所末戸社」の「所末」が「トコ松」となったのでしょうか。

所政社祭 19.12.22

所政社祭 この年の所政社は、小雪が舞っていました。総勢3名という神職ですが、諏訪大社宮司直々の参向なので現在でも重要な神事であることがわかります。
 その「所政社祭」を下の道から林を透かして狙いました。望遠効果で、雪が舞っている感じがよく(偶然に)撮れていました。