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闢廬社の橡湛木 諏方郡原村室内 18.8.26

 「七木之事」が載っている『諏方上社物忌令之事』は「上社本」と「神長本」の二冊があり、それぞれに「トチノ木タゝイノ木・榛木湛木」と書いてあります。木種は別として『物忌令』が書かれた頃の湛木は、前宮から下諏訪へ至る「湛廻神」コースにあったと考えるべきでしょう。時代が下ると、諏訪郡原村の「闢廬社(あきほしゃ)」境内とする記述が出てくるので、「江戸時代には、神社や各所に湛木があった」とするほうが無理がありません。

闢廬社の旧神木

橡湛木
手前の切り株が「橡木湛木」

 御射山祭初日。原村の闢廬社で神輿の到着を待っていた私に、氏子の中で唯一の顔見知りから声が掛かりました。「いいものを見せる」の言葉に従った先は、参道脇の注連縄が掛かった神木の裏でした。指先の切り株を「かつての神木」と言うので、「何の木か」と問うと、「…忘れた」とトーンが落ちました。その時は“一般的な神木”か、と気にも留めませんでした。

 原村編『原村誌』〔室内・闢廬社〕の項に、以下の文を見つけました。

(前略) 原始信仰の橡湛(諏訪七木の一本)の神事にはじまる。往古ここに橡の大樹があり、大木を神の憑代(よりしろ)として神事を行った。(中略) 開発前は諏訪上社の摂社として存在した社が、新田開発にともなって室内新田の人々が産土神として祀ったのであり、摂社が氏神へと転化した典型的な例である。祭神も自然崇拝の原始信仰にはじまり、やがて、人格神へと転化して、農耕神の保食命を祀ることになったのである。

マーキングした部分が簡潔明瞭で、闢廬社の変遷がよくわかります。

闢廬社本殿
左端の注連縄が掛かっているのが「橡湛木」

 その後、サイト『原村HARAMURA』に「かつては諏訪七木の一つに数えられた橡木湛木があったと言われていますが、枯死してしまい現在では高さ1mほどの枯木が覆屋のなかに保存されています」とあるのを見つけました。
 「もしかしたら」と闢廬社で撮った写真を調べると、一枚だけに「その一部」が写っていました。御射山祭に合わせた闢廬社の例祭ですから、8月26日しか拝観できません。来年に期待することにしました。

闢廬社の橡湛木の残欠 19.8.26

橡木湛木 今日は御射山祭の初日です。神事終了後に、役員にお願いして写真を撮らせてもらいました。ところが、…「厚皮一枚の残片が壁に立て掛けられている」という状態でした。空洞化して完全に枯れてから、保存が利く部分だけを収納(奉納)したと思われます。去年撮ったのは神木の一部がたまたま写っていたという写真なので、「太さは1m以上はある」と信じて疑いませんでした。
 「諏訪七木」の一つ「橡」といっても初代の木なのかわかりませんが、「湛木」が残っているのは闢廬社だけで、他はその所在さえはっきりしません。そのごく一部であっても、焚き木にまわさなかった氏子の配慮に感謝すべきでしょう。

 江戸時代の『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』です。

あき穂社之社は保食命山浦之惣社也、七木之内橡之湛木實(実)は栗木にてなけしの木と云、枯木にて枝無之(これなき)長さ三間斗三かひ程、原山祭登山之節大祝様御神事有、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 「湛え木」の記述にはよく「実は…」が出てきますが、ここでも「実は栗の木」と書いてあります。なお、「原山祭」は御射山祭の別称です。
 文政2年の乾水房素雪著『信濃國昔姿』では、〔一、(エノ)木湛室内新田〕とあります。

 『信濃奇勝録』では、〔七木〕で聞いた話を書き留めています。

河合弘淵か漫録に七のたたえの木という…、己(おのれ)或とき室内という所の橡たたえという所に往しに、傍らに瓦器畠と云処ありて古き陶(すえのもの)の欠けるが多(さわ)にあり、是をもてみれば諸(もろもろの)の木の本に供物しおざき(?)神祭(かみまつり)せし跡なるべし云々
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』