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南大塩御頭御社宮司社 茅野市豊平 21.5.23

南大塩御頭御社宮司社
 山浦地方唯一の親郷であった南大塩の組は、御頭制度ができてから四年後の元和四年に第一回目の御頭が当たり、十四、五年の間隔で順番がまわってきて御頭を奉仕している。(中略)
 明治九年に「御頭郷規約書」ができて旧例は廃止され、二六〇年も続いた御頭の親郷としての南大塩村の役目も終わった。御頭御社宮司社というような、ややこしい名前に村人はなじめなかったのか、村にある享保年代の絵図には「氏神」と記されているし、明治から昭和年代は「御明神さま」とよび親しまれていたようである。
 この社は昔は四町四方の境内を持っていたとの口碑があり、それを裏付けるように近くに諏訪社・雑司久保(社寺に任る人を雑司と呼んだ)の地名がある。それが昭和の初期頃には、境内も小さく社殿も小さな石の祠へと衰退してしまったのはどうしてなのかよくわからない。
 昭和六十年に小平紀之寄進により立派な社殿が再建され、平成年代に入り「御頭御社宮司社」と刻まれた大きな石碑が建立されて、面目を新たにしている。現在は諏訪上社にて管理する「摂社御頭御社宮司社」として登録されていて、例祭には上社の神職が出張して神事を司祭している。
南大塩の歩み編集委員会『南大塩の歩み』
南大塩御頭御社宮司社

 『南大塩の歩み』を読んだ後なので、写真の社殿が小平さん寄進のものとわかります。左に一部写っている大石も、始めは「立派な磐座」と思っていましたが、神社整備の際に持ち込まれた「境内(庭)石」と理解できました。

南大塩御頭御社宮司社 覆屋の左に、御柱で囲われた石祠があります。本殿を新築した場合、旧本殿が石祠のときは、その真後ろに「旧跡」として残すことがあります。覆屋の裏には何もありませんから、「享保三年」とあるその石祠がかつての本殿と推定してみました。

南大塩御頭御社宮司社「本殿」 格子の間から撮ったので一部が欠けていますが、覆屋の梁に「諏訪梶」の神紋がありました。
 現在は、御頭郷の年でも「御頭御社宮司社」として祭られることはないと思います。そのため、6月28日に諏訪大社が参向して行う「御頭御社宮司社祭」が唯一の名残でしょうか。
 御社宮司社の御柱が、余りにも細いことに疑問を持ちました。『南大塩の歩み』を読み進めると、小宮祭は白山社で盛大に行われていることがわかりました。つまり、南大塩の産土社は白山社で、御頭御社宮司社はそれ相応の大きさということでした。
 また、〔南大塩末社御柱祭について〕の項から、尖石遺跡の「尖石神社」はこの区で管理していることを知りました。

 区内に存在する神社・堂に類するものは三十余社になる。したがって、白山・八幡宮の小宮祭が終了した後、区の当役によって百五十本余の末社の御柱が建てられるので、申・寅年の区の役員は一年中御柱に明け暮れている。

 広い区であることの悩みでしょう。それでも、その都度“労力以上”の直会があると思われるので、酒好きにはたまらない一年になるでしょうか。

上・下の御頭御社宮司社 30.8.10

 境内の案内板に、以下の文言があります。

…地域の人々は、御明神様といって日頃から崇敬している。諏訪忠林(ただとき)の旧藩主手元絵図にも、上と下に氏神と標記されている
 諏訪大社祭事表に、御頭御社宮司社祭…

 その後の調べで、この御社宮司社は“上”御頭御社宮司社で、下方の集落に“下”御頭御社宮司社があることがわかりました。


‖サイト内リンク‖ 南大塩「下御頭御社宮司社」