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権祝の境石「矢」 諏訪市神宮寺 19.9.9

 3回目となる下諏訪町立図書館ですから「いつも」とは言えませんが、そのいつもは目に入らない反対側の書架に目が留まりました。一段だけですが民俗関係の本があり、背表紙を追うと『語り継ぎ神宮寺の民俗』がありました。「何かあるかも」と広げると、…ありました。

(前略) 往年大祝の五官の権勢が盛んだった江戸時代には長沢の片山は、東半分を「矢島権祝」、西半分を「祢宜(ねぎ)太夫守屋」が宰領した。その境の地点に「矢」の字を刻した大石が苔むして現存している。(後略)
語り継ぎ神宮寺の民俗刊行委員会編『語り継ぎ神宮寺の民俗』

 その写真に「片山風穴の下方に現存する」と説明があります。風穴小屋は知っていましたから、「あんな所」に「こんな石」がと驚きました。

片山の風穴

風穴小屋
風穴小屋と「矢」石(24.6.3)

 県道から、風穴小屋の下方を眺めますが、草が覆い繁ってわかりません。山際に沿って往復し、「本の間違いか」と小屋の上部に登ると、かつては風穴小屋が幾つかあったようでその痕跡が残っていました。
 落石が気になるガレ場が続きますが、県道からは、このような岩石が積み重なった様子などはまったく想像もできませんでした。結局は、葉が落ちた冬に来ようと諦めました。

 県道から奥まった所に、この辺りでは一番古そうな家があります。一旦は通り過ぎましたが、「些細な情報が引き出せそう」と引き返しました。おばあさんからおじいさんへの応対のバトンタッチで一気に解決か、と思われましたが…。郷土史に詳しいという「たくろ」さんを紹介してくれたのに留(とど)まりました。
 「あの交差点を…」と続く道順の話は上の空でした。実は、その時点では双六の「上がり」を前に「五つ戻った」心境でしたから、今日のところは自宅へ帰ろうと決めていました。しかし、私の後ろ姿を見て、「道が違う」と追い掛けて来るおそれがあります。せっかくの好意に、その家から目が届かないところまで「行くフリ」をすることにしました。
 最初のポイントなので覚えていた道まで来ると、その先まで行く気になりました。それこそ適当に何回か曲がると理髪店「たくろ」が見えました。

 チャイムを鳴らすと、奥から主人が顔を出しました。家族のお年寄りが「郷土史研究者」と思い込んでいましたから、その若さに戸惑いました。この時に、初めて昼時だったことに気が付きました。配慮に欠けたかなと遠慮がちに問うと、「一緒に行く」と言います。私と違い仕事中の身です。「申し訳ないから場所だけ」と断りますが、「予約のある2時までならOK」の言葉に、その好意を受けることにしました。

権祝の「矢」石

権祝の「矢印石」 先回りしていると、鎌を片手に自転車で到着。この辺りには駐車スペースがないので、さすがは地元、と妙に感心してしまいました。
 ところが、詳しいはずの彼ですが、確かこの辺と鎌を入れますが、空振りです。こちらは素手ですから、近くの草をザックで押し別けて探します。
 その右手のやや上から、「あった」の声が挙がりました。基準とした「風穴小屋」の右下斜面という位置でした。この密生し絡まった藪ですから、記憶にあっても、一発で指を差せるのは無理でしょう。中央に「矢」と彫られた巾1m余りの石は、上から押さえるように曲がった木に支えられて何とかずり落ちずに済んでいるように見えました。

権祝の「矢印石」
「矢」文字の巾は26センチ

 この「権祝の矢印」の前に立つまでに幾つかの偶然があったので、今、共に見ている「たくろ」こと原さんを介して完結した物と人とのリンクの連鎖に不思議なものを感じました。また、残された時間の中で「北斗神社」の話を聞くことができた「おまけ」までつき、私には「権祝」様々の一日となりました。

権祝の「境石」 平成23年4月15日現在の「権祝の矢石」です。「境石」と正式名が付き、枯れ草も刈られて整備されていました。歩道からも一目でその存在が確認できました。
 ここに登場する「たくろ」こと原さんは、後に、諏訪大社の研究で知られ著作も出していると知りました。