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山御庵社 富士見町御射山社 23.8.23 改

摂末社遙拝所の扁額 山御庵(やまみほ)は、中十三所の一社として上社本宮の「摂末社遙拝所」にその名前が見えます(左端)。「大四御庵」とともに御射山に鎮座していますが、時代や文献によって様々な呼称があります。
 『諏方大明神画詞』では「山宮」とあり、江戸初期の絵図には「三輪社・虚空蔵」と書かれています。現在は、長屋の拝殿内に「御射山社」と「国常立社(虚空蔵社)」が並んでいますが、山御庵に相当するのは「国常立社」です。

中世の山御庵

 以下は、式年造営の記録『上中下十三所造営』から「山御庵」の一部です。諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』から転載しました。

虚空蔵
山御庵      タラク
 大倭三輪同體(体)之神也
  御寶殿 鳥居廊 山御庵祝之所役也
一之御柱 祝五人之役
二之御柱 (以下略)

 この文献からは、「本地仏は虚空蔵菩薩で、祭神は奈良の三輪明神と同じ」「式年造営で、本殿・鳥居と御柱が建て替えられた」ことがわかります。

江戸時代の山御庵

上社古図 左は、神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』の一部です。中世では「山御庵」ですが、江戸初期作と推定されるこの『古図』では、「三輪社・虚空蔵」の名称で二つの社殿が並立しています。
 この形式は他の文献では見られないので、本社(建御名方命)と普賢堂(普賢菩薩)の“関係”を、三輪社(大物主命)─虚空蔵堂として、御射山にも造営した(描いた)と考えることができます。

現在の御射山社境内

 関係する社殿を、細川隼人著『富士見村誌』から書き出してみました。

御射山社 祭神 建御名方命・大己貴命・高志沼河姫命
虚空蔵社・国常立社 祭神 虚空蔵菩薩・国常立命(大元尊神)
三輪社 祭神 大物主命

 「明治の“改革”で、御射山社を国常立社の横に造営したため」かどうかはわかりませんが、三輪社は境内の端に“追いやられた”格好で鎮座しています。御射山には大物主命は必要ないと判断したのでしょうか。
 『村誌』では「虚空蔵社・国常立社」が並記という形ですが「国常立社(虚空蔵社)」と考えてください。明治までは国常立命より虚空蔵菩薩の方がポピュラーだったので、このような表記にしたのでしょう。

現在の御射山祭

御射山社
御射山社(神輿から遷座した直後)

 本宮から渡御した諏訪明神の御霊代は、神輿から御射山社本殿に移されます。
 明治までは「大祝が本宮から来て大四御庵社と国常立命社を参拝する」方式でしたから、御霊代が大祝の代役とすれば、「御射山社に遷座してしまう」ことは理屈に合いません。

国常立命社
国常立命社(右が神輿)

 長い間この遷座を疑問に思っていましたが、「御射山社は“御旅所”ではないか」と閃きました。長旅の上に神輿に乗せたままでは失礼に当たりますから、「御霊代に相応しい正式な座・御射山社を設けた」ということでしょう。
 私が参観した神事の流れからは、「御旅所に入った諏訪明神が、国常立命社を参拝する」図式は見えません。現在では、“文字通り”の「一堂に会した」ことだけで十分なのでしょう。ここで、御射山社は御旅所として納得しましたが、「国常立命の渡御」が疑問として残ります。
 「大祝(諏訪明神)が、御射山に鎮まる(常駐する)国常立命を参拝する」のが本義ですから、本宮から国常立命の御霊代が神輿で渡御する形では、なぜ三日間だけ遷座して本宮へ帰るのか・その後は空き屋(国常立命は不在)になるのか・本宮では国常立命をどこで祀っているのか、などと素朴な疑問が次々と湧いてきます。
 明治の諏訪神社変革期に「このようなシステム」にしたのは間違いありません。諏訪大社に問えば、そつなくこの疑問の“申し開き”をしてくれるのは間違いありませんが、外から眺めるだけの私は大いに悩んでしまいます。このような疑問は、地元の『富士見町史』も取り上げています。

 さきに述べたように御射山社の主神はいずれの神か、その神殿はどの社であるかを考えてみると、神事からすれば、現在は諏訪大社の神輿が西の御射山社前に到着し、そこで修祓する。其の後、東の(大)四御庵社に行き御手幣を奉って神事を行い、しかる後に御射山社に帰ることから、本殿(神殿)にあたるところは大四御庵社となる。大四御庵社には、低い石の玉垣をまわした中に石祠がある。この祠の祭神は、大物主命(大国主命)・事代主命・下照姫命・建御名方命である。(中略)
 大祝が御狩りの行事をすることは、獣をとり、その生贄を祖先神に捧げ、報恩を謝すための神事をおこなうことであるから、本殿は大四御庵社ではなく、西の御射山社としなくてはならない。
 しかし、生け贄のための獣を与えてくれるのは山ノ神で、こうした神にも報恩を謝せねばならない。それで、天津神の神世七代の第一代、国常立神を御射山社の神と共に祀ることにしたのであろう。江戸時代に描かれた絵図には、御射山社ではなく三輪社となっている。左には虚空蔵(神仏習合時代の国常立神)の建物が描かれている。この絵図からすれば、江戸時代は三輪社で、幕末または明治以降からは御射山社としたのかもしれない。とすれば、三輪社の前はどのような社であっただろうか。

「御手幣時申立」

 武井正弘著『年内神事次第旧記』にある「御手幣時申立」です。当時はこの祝詞を山御庵の前で奏上したのでしょう。

かけまくもかしこ、常のあとに仍(なお)仕えまつる御射山の御狩山に、和茅(あえち)の御手幣を申してはこそ、(中略)
荒い毛柔らかい毛選ぶことなく捕らせたまえ、畏みも畏みもぬかつか申す。

 内容は、「どんな鹿でもいいから、とにかく捕らせて下さい」という“切実”な祝詞です。「諏訪の鹿は体に穴があって、矢が素通りしてしまう」そうで、『画詞』には「矢に当たるもの二、三に過ぎず」とあります。これが「神様へのお願い」とは拍子抜けですが、『嘉禎記』には「憑(たのみ)の神事」とある、8月1日の「神事に供える贄を捕るのが目的」なので、二、三匹獲れれば「御狩神事」は終わったそうです。それも難しかったので、このような「お願い」をしたのでしょう。
 参集した武人は「狩りより団子」で、パレードで着飾った己を誇示し「飲み食い」することに熱中したのかもしれません。

国常立命(虚空蔵)

 江戸時代では、山御庵(御射山)は「虚空蔵」の名前の方が一般的でした。諏訪の各地にある道標に「右(左)・こくぞう(虚空蔵)」とあったり、御射山へ向かう道を「こくぞう道」とも呼びました。神輿が原村の「虚空蔵社」や「虚空蔵菩薩碑」の前に立ち寄り、その前で拝礼をするのはこの名残です。