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休戸千鹿頭神社 諏訪郡富士見町 20.3.15

休戸から花場・若宮へ 「ここは休戸」の標識があります。ここから「花場」経由で、地図上では無名の休戸千鹿頭神社へ向かいました。花場は、「花」から受ける印象の強さから名前だけは知っていました。一生涯それだけで終わるはずでしたから、その集落を今歩いている自分が不思議です。…これも千鹿頭神社の御縁でしょうか。
 道順で行くと(休戸の先の)「花場の先」ですから、「もしかしたら」という若干の危惧はありました。山を背負った道端の鳥居を眺めると、…もしかしたらの「山ノ神」でした。数ある祠や神号碑に千鹿頭神社がないことを確認して、振り出しに戻りました。

 もう「運動不足解消」などとは言っていられません。プリントアウトしたネット地図の鳥居を目指して、車で「木之間」から「若宮」と巡回しました。ところが、「大山祇社」「若宮八幡宮」、戻って「金比羅神社」と全て外れでした。「石祠一つだけ」の可能性も高まってきました。再び原点に戻って、休戸周辺を範囲を広げながら四方八方を当てがないまま歩き回りました。清酒「真澄」の宮坂醸造敷地の展示貨車2両・最終埋め立て処理場・二匹並んだ毛皮と骨だけになった獣の死骸・「栽培したワラビです。採らないでください」の看板が休戸のお土産とは余りにも淋しいので、自力本願は諦めました。

 別荘を除くと、ここでの幹線道路からは全く見えない一つ下の道沿いに古家が二軒あることは初めの探索で知っていました。無住のように見えたので除外したのですが、その確認だけでもと近づきました。奥の一軒が玄関を大開きにしています。気になる犬の鳴き声も在宅の証、と期待が膨らみます。
 「この人なら」というおばあさんが奥から顔を見せました。早速「千鹿頭神社は」と切り出すと、「ちかとうさんは─」と返ってきました。「雪の山」から入口がわかり、石灰と思われる「せっかい道に突き当たったら右に曲がる。すぐ上に上がる道がある。それが参道」と教えてくれました。別れ際の「お祭りは今でもありますか」との質問の答えは、「氏子がいないので正月にお参りするだけ」でした。

休戸千鹿頭神社

休戸 千鹿頭神社

 先ほどは横に見た花場の家々を、今は見下ろしています。一回は途中まで来て諦めたその先を明確な目的を持って登り続けます。話通りにダンプが行き交う道に突き当たりました。ホコリが収まるのを待ってから、やや右にずれている、さらに上に続く小道に踏み入りました。すぐに「千鹿頭大明神」とある鳥居が見え、その先に横一列に並んだ祠が見えました。遠目でも、「余所者(よそもの)が来る所じゃないよ」と拒絶するような暗さがあります。横吹とは全く趣を異にしていました。

休戸 千鹿頭神社

 右端に「平成五年南諏(なんす※南諏訪)衛生センター最終処分場建設に伴い川原休戸千鹿頭神社を原休戸千鹿頭神社境内に移転合祠する 平成五年十一月 休戸区」と碑があります。何回か読み直して、現在自分が立っているのは「原休戸」の千鹿頭神社と理解できました。しかし、どれが河原休戸から移された祠なのかわかりません。

寛永 取りあえず最大の祠に注目しました。横に、殴り書きのような書体で年号が彫ってあります。ところが、「寛永」から下が読み取れません。反対側に廻ると「丁丑」です。干支さえわかれば西暦に換算できるので、何かの手掛かりになりそうです。もう一つの祠は「享保八年(1723)・休戸村」とありました。
 富士見の千鹿頭神社をカメラに収めることができましたが、なぜここに千鹿頭神が祀られているのかわかりません。「北の松本市神田・林の千鹿頭神社に対し、南の守りを富士見の千鹿頭神で固めた」ということなのでしょうか。
 帰り際に振り返ると、左前方の山の斜面が大きく崩れています。これが、20分前には知らなかった石灰採掘場でした。

寛永の石祠

 自宅で「丁丑」を調べると、寛永14年(1637)とわかり、『富士見村誌』に載っている「寛永十四年の祠」と一致しました。後日、今井廣亀著『諏訪の石仏』で以下のような文を見つけました。

 寛永拾四年丁丑三月廿五日 休戸村
の銘が、きわめて素朴な書体でうつくしい。こうした頭でっかち尻つまりした書き方は当時のものには少なくない。誰か白絵具を入れて文字をたどった跡が残っていた。

 巻末を見ると「昭和46年発行」とあります。今でも白く残っていますから油性の絵の具でしょうか。

休戸は三集落あった

 「休戸」は、「通行人が休憩する家」とあります。加々見一郎発行『高原の自然と文化』では、「原休戸は、明治30年頃他へ移りて今人なし。河原休戸は、ブラジル移住したりその後塚平へ移って一軒が残る。水カケ休戸は茅野市から移ってきた4軒が残る」とありました。この文から、休戸の集落が三ヶ所あったことがわかります。それぞれに千鹿頭神を祀っていたとすれば、千鹿頭神社が三社あった可能性がありますが…。

 昭和36年発行の細川隼人編『富士見村誌』から、千鹿頭神社です。

 原千鹿頭社と河原千鹿頭社の二社があって、例祭は何れも三月十五日である。祭神は内県の神で勧請の年代は不明である。(中略)なお休戸の氏神は現在、石灰屋道上の林の中にあって、そこには寛永十四年と銘のある籃塔がある。

‖参考サイト‖ 『じいばあカフェ』から「休戸」