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八劔神社 諏訪市小和田 17.8.16

 長野県神社庁では「八劔神社」と表記しています。諏訪には「八剱神社や八剣神社」があるので、神社庁の「劔」に倣いました。

 今はコンビニに変わってしまった「アップルランド」の駐車場を予定通りに拝借しました。真夏の屋上駐車場を敬遠したのか、数台しか見えません。この状態なら気兼ねなくと思いましたが、それでも、気が小さい私は気が引けます。今日は“寸借”駐車ではなく、八劔神社から手長神社、果ては先宮神社までという汗も道程も壮大な計画です。丁度昼時とあって、「免罪符」ではありませんが階下のスーパーでウナギの巻寿司と伊右衛門を購入しました。
 店舗の前はお盆休みで渋滞している国道です。車列が吐き出し続けている熱波を受けて、わずかに残っていた背中の冷涼感が吹き飛びました。今の時間では極限られた日陰を選びながら八劔神社を目指しました。

甲立寺 突き当たりのはずですが、正面の白木の門はどう見ても山門です。八劔神社の代理のように現れた「八劔山甲立寺」の門前で首を振ると右側に塀が見え、そちらが目的とする八劔神社と知りました。仏様と神様ですから、それを意識して向きを変えたのでしょうか。横並びですが、互いにそっぽを向いているような甲立寺と八劔神社でした。

八劔神社参拝

八劔神社本殿 塀の上に屋根だけを見せている本殿二棟を見上げてから、その裏を廻って、歩行者には贅沢な車にとっては窮屈な道を進みます。駐車場の関係で、神社の真後ろから玉垣に沿って一之鳥居へ向かうという道順ですが、この暑さです。“横参道”が目にはいると、表参道から参拝するのを正としている私ですが、ためらわずにその鳥居をくぐりました。

正殿・権殿で、かつては式年造営で交互に建て替えた。

八劔神社拝殿 子供が遊ぶ八劔神社の境内は、うれしいことに完全な緑陰と緑風です。ザーッと一巡りしてからお昼にしました。寺社の境内で飲食するのは“ルール違反”と決めていますが、すでにここから出る意志は失せています。それでも多少遠慮ということで、立ったままで済ませました。

明神梶と諏訪梶

水盤「諏訪家の家紋」 手水鉢に彫られた神紋は、諏訪梶ではなく根が五本の「丸に明神梶」です。気になって裏に回ると、三代藩主「信州高嶋城主・従五位下因幡守源朝臣諏訪忠晴」の名が彫られていました。諏訪ではまれに見る立派な手水鉢も藩主の寄進とわかり、その紋が「藩主家の紋」と理解できました。しかし、最近付け加えられたと思われる吐水用の大石が邪魔をして、その後に続いていると思われる奉納年は確認できませんでした。

 拝殿の鬼板と大棟は「諏訪梶」です。「神楽殿の神紋は」と見上げると、奉納俳句が連なった額が掛かっていて確認できません。裏に廻ると、三ヶ所の蟇股に紋が確認できました。

神楽殿紋

 中央が拝殿と同じ四根の「諏訪梶」で、左が「武田菱」です。諏訪では武田家の家紋は珍しいので、特別な結びつきがあるのかもしれません。右は、今でこそ諏訪家の「裏紋」と指摘できますが、その時は見当も付かなかった「鶴」でした。

縣社八劔神社

八劔神社拝殿 帰りは一之鳥居から境外に出て、社号標の「縣社八神社」が「劔」であるのを確認しました。また、戦後に社格制度は廃止されましたが、今も堂々と「縣社」と“読める”ことに神社の格式の高さを思いました。
 再び一之鳥居をくぐり、境内を縦断して退散という“手続き”をとりました。

御神渡りの記録『御渡帳』

八劔神社拝殿 境内の案内板には「天和三年(1683)以降の記録『御渡帳』が伝わり、今日まで書き継がれている」と書かれています。現在も、御渡(みわたり)拝観式・奉告祭・注進式までの御神渡り関係の神事は、八劔神社と氏子の手によって執り行われています。写真は、御神渡りを確認したことを神前に報告する「御渡奉告祭」の一場面です。

大明神(※出典の表記)

 安政4年とある、飯塚久敏編『諏訪舊蹟誌』から「八剣大明神」です。

 此の神旧くは高島に祭られりしを天正十九年今の城郭を日根野織部正(おりべのかみ)高盛(※高吉)築るる時引(退)れし也、其跡今に八剣小路と呼ぶ、しかして下桑原の郷中槻の大樹の本に仮の鎮座を卜(ぼく)してしばし坐令(いまされ)まつれるを、諏方因幡守頼水朝臣上毛(※群馬県)(※元)惣社より復国の後、命(※今?)の地に社を定めて、城郭守護神とは斎(いつ)きまつりきという説あり、信ずべし、(中略) 今北大塩村にも鎮座あり(※茅野市南大塩八剣神社)と聞こえたり、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 日根野氏が高島に城を築く際に、(邪魔となる)住民と寺社(甲立寺・八劔神社)を「下桑原」に移転させた。その後、諏訪に国替となった諏訪氏が現在の地「小和田」に移したということになります。
 また、諏訪藩主は、城に先んじて鎮座していた神に敬意を表し「城の鎮護神社として手厚く崇敬した」とあります。そのため、八劔神社の御柱は、諏訪大社に次ぐ大きさと先端を三角錐に切り落とすことが許されているそうです。旧社格が「県社」であったことからも、その格式の高さが知られます。

江戸末期(明治初年)の八劔神社 25.6.19

八劔神社古絵図 左は、長野県古地図刊行会『慶応四年信濃国高島城下町絵図』の一部です。ルーペで拡大すると、「八劔社」境内の様子が確認できました。慶応4年=明治元年の社地は神楽殿までなので、現在の半分くらいでしょうか。鳥居()も一基だけで、それも境内の横にあることがわかります。
 甲立寺との境は、今は“乾いた”U字溝ですが、当時は用水が流れていたことが見て取れます。

八劔神社「鳥居」 絵図の鳥居を見て、冒頭に書いた「境内の横にある」鳥居の写真を新たに載せました。初めて参拝したときは裏参道の鳥居という認識でしたが、当時はこの場所が表参道ということがわかります。この変則的な配置は、すでに完成していた町割りに後から“参入した”ためということでしょうか。
 鳥居に銘はありませんが、『諏訪郡諸村並舊蹟年代記』で、宝永年間に建てられたことがわかりました。

宝永五年戌子閏正月五日 八劔社石鳥居曳人足費用被下候事
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

‖サイト内リンク‖ 諏訪湖中の高島から遷った「八劔神社の考察」