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八劔神社「社名の由来」 −八劔神社の考察(3)− 25.7.14

八劔神社「神号額」
八劔神社拝殿の掲額

 小和田鎮座の八劔神社は、主祭神「八千矛(やちほこ)神」・合祀「日本武尊・誉田別尊」としています。合祀の神々は“その後の都合”で組み入れられたと考えるのが妥当ですから、八千矛神のみを追うことにしました。

八劔神社神楽殿「神号額」
八劔神社神楽殿の掲額

 八劔神社は「十三所」の一社なので、改めて、うろ覚えになっている諏訪明神(建御名方命)の御子神を眺めてみました。しかし、「八」が頭に付くのは「八杵命」だけです。「杵→劔」の変遷は考えられないので、私の持てる知識では、とっくに行き詰まっていることが確認できただけに終わりました。そこで、先輩方の「八劔考」を集めてみました。


八千矛と八劔

 諏訪史談会『諏訪史蹟要項上諏訪編』から、〔八劔神社〕の章にある〈祭神考〉を転載しました。因みに、この〈祭神考〉は、県社八剣神社々務所刊『八剣神社誌』を書き写したものです。実は、長野市まで出掛け、県立図書館で『八剣神社誌』を閲覧し、初めて“この事実”を知りました。

…素戔嗚尊(すさのおのみこと)御子八千矛神は、我国土開発平定の覇業を建て給い、別名大己貴命亦名大国主命と称え奉り、
…太古洲羽(諏訪)の地は周囲山を廻らし平坦は悉く水を湛えたる湖中一つの島あり。即ち高島と称す。
…口碑に伝うる処に依れば建御名方命は此島を卜(ぼく)し父の神大己貴命を祀られしとなん。此神は日本国造りの時矛を以て天下を平定せしにより八千矛の尊称あり。

 八千矛命を、建御名方命の父である大己貴命(大国主命)としています。続いて、現在の“公式見解”に至った経緯を書いています。

 八劔神社と称え奉りしは八千矛神を八劔と略称せしに始まりしを、偶々(たまたま)草薙の劔を安置奉祭せる熱田の八劔と其名称相通じ、又日本武尊等を合祀せられたる等により、後世誤解し

・元禄四年(権祝)矢島政賢氏の「八劔大明神縁起記」には、配神日本武尊の記述に加え草薙の劔の御霊を以て八劔と祭れりと云い、

・安政四年飯塚久敏・宮坂恒由共編「諏訪旧跡志」には、熱田の八劔の神劔御霊代を斉きて、八劔大明神とは祭るべしと記載せるは皆誤りにして、

・明治五年神社書上帳にもこれ等の記録により、当時の神職が祭神日本武尊、一に云廣矛御霊、又云草薙神劔御霊と書き上げしを、明治三十二年祭神訂正を提出。明治三十五年五月七日附認可神社明細帳の訂正をなせり。

 ここに出る『諏訪旧跡志』を、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』で読むと「此は祭神村雲神劍神鏡七面合わせて八劍と称し」とあります。劍一振と七面の鏡を合計して「八劍」という表現なので少しニュアンスが違いますが、いずれにしても「草薙の劍」を否定していることに変わりありません。
 松澤義章著『顯幽分兩記』があります。読みやすいように手を入れた労苦を買って、一通りは目を通してください。

…我が国(※諏訪)の八劍は尾張の神を勧請ありしとは言い難し。此は、尾張の国に坐すと同じ御名なるを以て爾(それ?)誤れるなるべし。我が大御神(※八劍大明神)は他の国に数ある所謂(いわゆる)勧請の御神にあらず。
 現に此国(※諏訪)に坐しまし故に酒室の社は酒を製らしめ給う所にて、酢蔵の社は酢を製らしめ給う所なるべく、蓼の宮は楯を造らしめ給う所にて、(達矢の社は)矢を造らしめ給う所なるべし。各それぞれの社のあるは現に坐しまし御時の跡の存れるなるべし。然るに兵器に本としてましき劍を造らしめ給う跡の聞こえざるは不審しき事にあらずや。
 按うに此御社若(もし)くはその趾なるを尾張の国の八劍と同じ御名なるにより誤りて、同じ御神也(なる)御神躰は天の村雲の御劍なりと思えるにはあらざるか。
 此御社は往古南大塩郷にありけるを此地に移し奉りしと聞けり。南大塩郷に古より鍛治屋舗(※茅野市鋳物師屋)と唱えきたれる地あるは、上古劍を造らしめ給う跡の存れる微(かすか)なるべくも思わる。
 若し、さもあらば此御社は劔を造らしめ給う事を司(つかさどり)給う御神にて、尾張の国の八劍の神にはあらざるべし。
 凡(およそ)八の数は上古多く用い給いしなり故、八咫鏡(やたのかがみ)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)八柄劍など八の数によりて號(号)つけ給える類(たぐい)はなはだ多し。されば劍を造らしめ給うにも八の数を用い給う法あるべけれど、そはいまだ詳ならず。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 「十三所」である酒室神社・達屋(矢)神社・酢蔵神社と蓼(楯)宮神社を挙げて、八劔神社は矢を司る神社ではないかと推定しています。しかし、最後は「未だ詳らかではない」で終わっています。

八劔と八臂

 小口伊乙著『土俗より見た信濃小社考』の「八剣神社」から抜粋しました。私が“望む”「八劔辯才天」の関係が書かれています。

…弁才天とも書く、福智とか除災、延寿などを司る天部で、いろいろの名のある印度の神とでも申すべきか。妙音天とも美音天とも、大弁才功徳天ともいわれ、像ではニ臂(ひ)あるいは八臂(はっぴ)で、左手に弓、刀、斧、羂索(けんさく)を、右手に箭、三鈷戟(さんこげき)、独鈷杵(どくこしょ)、輪をもつものもあり、琵琶を弾じているものもある。もともと河川を神格化したものとされ、吉祥天女とともにインドで最も尊敬された女神、後世吉祥天女と混同され福徳賦与神として弁財天と称せられ日本では七福神の一人として信仰されてきた神である。
 「高島に八劔弁才天」と『根元記』に記しているが、河川湖沼の神格化である弁才天を湖の中の高島に祭るは理に叶うものであるし、八劔は八臂と相応することから、八劔弁才天としたのは人々の志向に叶った神であったのであろう。そして八劔の名と文字が祭神をつぎつぎに変えていったのであろう。御本体たる古鏡をかくして保存し信仰したとする老媼の伝えは、御祭神を、弁才天というインドの神であるのを表向に出さないで劔の霊を祀るとしていたことをいっていたとすれば解けぬなぞでもない。(中略)
 しかし、嘉禎の奥書ある『根元記』のいう「高島八劔弁才天」とした、八劔弁才天はインドの神ながら神仏習合の波に洗われ、日本の神になり、日本武命の草薙の霊となって、もとの神がすっかり形を替え、弁才天もインドもかくれてしまったところに古代日本人の生き方が見られるのである。

 ここに出るキーワード「八臂」を参照してもらうなら、八劔神社の別当寺である甲立寺の辯才天像がふさわしい、とビッグサイズで載せてみました。文字の羅列が続いたので、一休みとして、しばし辯天様を拝観してください。

甲立寺の辯才天像

 八臂は仏教でいう「八つの肘」のことだそうです。御覧のように、“肘”に八種類のアイテムを持っています。八臂にも系統があるそうで、甲立寺の像が“手”にしているのは宝珠と劍です。この形態を「宇賀辨財天」と呼ぶそうですが、注視しても人頭蛇身の冠は確認できませんでした。

 一服が長くなりましたが、小口さんは「八劔は八臂と相応することから、八劔弁才天とした」と考えています。すでに古今の学者が「熱田神宮の八剣宮」を否定している以上、私の知識ではそれ以外の関連づけが見つからないので、(諏訪の神には似つかわしくありませんが)辨才天に結びつけた小口さんの説に乗ることにしました。

 まだ興味が持続している方は、引き続き「八劔神社の考察(4)」を読んで下さい。


八劔神社の考察(4)「八劔神社の元宮」