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八劔神社の元宮 −八劔神社の考察(4)− 25.7.20

 断りがない限り、引用文献は諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』です。

 八劔神社の名が見える古文献を読むと、移転(遷座)が、一般的に言われている単純なものではないことがわかります。そのことに触れずにお茶を濁すこともできますが、私の性格で、つい深入りしてしまいました。

八劔神社“移転の顛末”

 『諏訪郡諸村並舊蹟年代記』(以下『年代記』)から抜粋しました。

一、…元八劔之社は今之御川渡御門東(南)之方に有、家二十軒程も之有哉(これありかな)、栗古木凡(およそ)四五かい(抱)も之有哉、其所より教念寺北方之上町麻屋伊左衛門裏え引、又今之所(小和田)へ勧請、麻屋裏に八劔社・塩竃社(しおがましゃ)・諏訪社三社也、…

(南)は、金子本(諏訪見聞記)

 現在も屋号が残っていると見て、「諏訪市・麻屋」をネットで検索してみました。反応がないので「上町」を加えて再検索したら、「伝馬役」関係の論文がヒットし、伊左衛門の名も挙がりました。あくまで伝承としていましたが、教念寺北方の「上町」が甲州街道(現在の国道)に付けられた町割りの名で、「麻屋伊左衛門」は寛延3年(1750)『上諏訪町伝馬役軒帳』に名が載る“実在の人物”であることがわかりました。

『上諏訪宿の図』 さらに、手元にあった今井広亀著『諏訪高島城』の図録で確認すると、『明和八年(1771)御城下町…』古図を図式化した『上諏訪宿の図』に、諏訪二丁目の信号に名が残る「鍵之手(鍵)」から“四軒目”に「麻や」があるのを見つけました。麻屋はこの辺りに連なっている伝馬役の一軒で、こちらの伊兵衛は伊左衛門の弟というおまけの知識も得ました。

信濃国諏訪郡高島城絵図 長野県古地図刊行会『復刻慶応四年信濃国高島城下町絵図』を、キーワード「教念寺北・上町・麻屋裏」に「鍵之手から四軒目」を加えて眺めると、…「鳥居」があります。改めて『上諏訪宿の図』を眺めると、麻屋の細長の敷地内に汐(せぎ※水路)が斜めに通っているので、“絵図でも四軒目”が麻屋と確定しました。そこで、神社を・麻屋をで囲ってみました。ただし、現代の地図では鳥居は確認できせん。
 ここで『年代記』に戻ります。実は、ここに出る三社の一つ塩竃社が諏訪では稀少の神社とあって、『諏訪市史』にその記述があったことを思い出したからです。確認すると、明治の神社合併時に「一社へ多く合併した例」として、「塩竃社→手長神社」を挙げていました。この合併によって旧鎮座地が更地になっていれば、現在のいかなる地図にも表示しないことが理解できます。
 次は、安政4年とある、飯塚久敏編『諏訪舊蹟誌』から「八剣大明神」です。

 此の神旧くは高島に祭られりしを天正十九年今の城郭を日根野織部正(おりべのかみ)高盛(※高吉)築るる時引(退)れし也、其跡今に八剣小路(?)と呼ぶ、しかして下桑原の郷中槻の大樹の本に仮の鎮座を卜(ぼく)してしばし坐令(いまされ)まつれるを、諏方因幡守頼水朝臣上毛(※群馬県)(※元)惣社より復国の後、今の地に社を定めて、城郭守護神とは斎(いつ)きまつりきという説あり、信ずべし、…

 “素直”に読むと、高島(城内)に「八剣小路」の名が残っていることになります。それには目をつぶるとして、「下桑原(上諏訪町)のケヤキの根方に仮鎮座」とあり、「後、今の地(小和田)に社を定めて」と書いています。改めて前出の『絵図』で確認すると、祠(社)の背後に、ここだけという大木が描いてあります。これが文中のケヤキの大樹と重なりますが…。

 以上の二書によれば、八剣大明神は、「日根野高吉が高島から下桑原郷上町へ移させ、初代藩主頼水が上町から小和田へ移して今に至る」ということになります。 

八劔神社の旧跡地探訪 26.3.21

 伝承とも言えそうな記述ですが、多くの史料と一致したことに驚きました。そこで、先に挙げた「八劔神社の旧跡地」を現地で確かめることにしました。

八劔神社の旧跡地か

 教念寺を左に見て、私には未知となる道をさらに進みます。右の小路の先(国道)に「鍵之手」の信号が見通せると、まだ痕跡が残っているのを期待して民家の間を注視し続けました。すぐに駐車場の奥に灯籠が見え、そこが求めていた場所に違いないことを確信しました。

八劔神社の古宮 左に回り込むと、御柱と石祠があります。まだ神社の体裁が残っているのを見て、ホッとしたというか、何か熱いものを感じました。
 また、傾いている御柱ですが、その木肌から平成22年に更新されたものとわかり、まだこの神社を祭っている人々が健在であるのが知れました。しかし、祠の裏に「安政二年(1855)九月造之」とあるだけで、神社名も祭神も不明です。
 一本だけの灯籠の竿には「文久二年(1862)」と彫られていますが、その竿と火袋と違い、見るからに古そうな笠は黒化して一部が剥離しています。史料で読んでいた天保14年(1843)の大火が頭に浮かびました。

 写真に見える隣家に声を掛けると、「(駐車場は)ほんきんさんの持ち物だから、(そこで)訊いたみたら」と教えを受けました。「ほんきん」は「本金酒造」というのが諏訪の常識ですが、どこにあるのかまではわかりません。
 国道を挟んだこの辺りは、酒造会社が何軒かあります。順に確認すると、すぐにその字が書かれた蔵を見つけました。しかし、そのブロックを二回廻っても、問うべき入口はすべて閉まっていました。“標的”にはかなり迫っているという状況ですが、今日はここまでと引き返しました。

八劔神社は、八劔社の分社(!?) 26.4.8

八劔神社の古宮 『年代記』を読み直すと、「又今之所へ勧請」と書いているのに気が付きました。これは、教念寺北・麻屋裏から小和田へ「分霊」したのが現在の八劔神社ということになるので、八劔社(宮)は依然として残っていることになります。現地で見た石の祠が八劔社だったのでしょうか。
 ここで、同書にある「麻屋にある八劔宮の御柱は高島藩が用立てた」としか読めない不思議な記述を挙げてみました。

嘉永元年麻屋に而(して)願上げ上桑原御林より(より)御柱下され御上様に而建る
上町麻屋伊左衛門屋敷に八劔宮御柱嘉永元年願上上桑原御林にて永代下され候

 前より気になっていたのですが、「勧請」の文字を目にしたことで合点がいきました。これは、「高島藩が麻屋の屋敷にある社を八劔神社(の元宮)と認定した」ので「藩が御柱の調達を含むすべての費用を賄った」ということでした。
 これで、嘉永元年は1848年ですから、明治元年(1868)『信濃国高島城下町絵図』に載る無名の神社は八劔社と確定できました。また、現地で確認した石祠が八劔社である可能性も極めて高くなりました。

同名で紛らわしくなるので、「八劔社」としました。

高島(高島城)・八劔社・八劔神社の相対位置

高島城にある、八劔神社の旧跡地

 八劔神社発祥の地「高島“城”」に、今でもその旧跡が残っているのかを確認することにしました。何かの本に、「今でも神域が残っている」と書かれていたのが記憶にあったからです。

 これについては、八劔神社は(最終的に)小和田に遷して盛大に祀っているから「高島城には残っていない」と突っぱねられそうですが、念のために、文献や図録を当たってみました。
 今井広亀著『諏訪高島城』の〔高島築城〕の章に、「高島の図」があり、「本図は大概こうもあったであろうと想像される島の輪郭である。縄文土石器の発掘、市庁舎建築の時のボーリング、城の石垣修理のときにみた土層の断面、大洪水のときの浸水範囲などを考え合わせたものである」と説明があります。この輪郭を『Google Map』に写したのが上図です。

信濃国諏訪郡高島城絵図
県立歴史館蔵『信濃国諏訪郡高島城絵図』

 左の絵図は、享保3年(1718)とある高島城の「本丸」です。方角は、上が北になるように傾けてあります。
 『土俗より見た信濃小社考』では、「故地は、現在、高島城址公園内の招魂社(護国神社)の裏手にあたるところあたりであったらしい」と書いています。
 これは、金子本『年代記』の「川渡御門(南)」が当てはまります。一方の石田本「川渡御門の」なら、本丸内に限定すれば諏訪市役所(右)寄りとなります。
 ここで市役所が出てきたので、以下に市役所の屋上から眺めた高島城の景観を載せました。

高島城本丸
space護国神社space高島城本丸

 幾つかの資料を紹介しましたが、何も知らない人だと笑われないように、現地で確認してみることにしました。しかし、本丸のその辺りは護国神社の境内で占められているだけで、(予想はしていましたが)「八劔神社旧跡地」の標柱はありません。また、幾つかある高島城の絵図を参照しても、東照宮やその他の神社はあっても、その辺りには何もありませんでした。

 県社八剣神社々務所刊『八剣神社誌』に、旧跡地の消息が載っていました。

高島に所謂(いわゆる)浮城を築くに当たり、先ず神慮を伺い奉、高島に居住する氏子と共に、現在の地に御遷座遊ばし奉りしかども、旧社は神域として現存し居れり。

 しかし、この冊子は昭和7年の発刊です。その後に太平洋戦争が始まりましたから、旧社の存在は忘れられてしまったのでしょう。

八劔神社の旧跡地再訪 27.10.16

 (いきなりですが)本金酒造の前を通ったら店が開いていました。いったん戻り、といっても隣にある母屋の開かずの門の前ですが、説明する文言を考えながら態勢を整えました。意を決して事務所の奥にいる当主に「ここに来たわけ」を話すと、以下のように答えてくれました。
 「父から、(駐車場は)八劔神社の仮鎮座地だったようなことを聞いたことがある。先祖がいつその土地を取得したかなどの詳細はわからない。(話の)祠は、今でも御柱を建てるなど祀っている」
 すでに本の中の話だけと思っていましたが、“当事者”は漠然とした言い伝えであっても自覚していることがわかりました。

取りあえずの結論(まとめ)

 これをもって、再び“最終稿”としました。新たな史料が見つかった時点で加筆・修正をします。