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諏訪の“やつるぎ”神社 −八劔神社の考察(1)− 25.6.30

 諏訪市小和田(こわた)に鎮座する八劔神社のルーツは、諏訪湖の高島に鎮座していた八劍大明神です。そのキーワード「高島・八劔・辯才天」を探求する第一歩として、諏訪に鎮座する“やつるぎ”神社を調べてみました。

 ここには「劔・剱・劍・剣」が“飛び回って”いますが、参照した本や資料による違いです。総称として「やつるぎ」神社を用いました。 断りがない限り、引用文献は諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』です。

 諏訪市と茅野市に、「やつるぎ」神社が四社ある(あった)ことがわかりました。各資料からその概略を転載し、『祝詞段』に載る該当社名を併記してみました。

嘉禎三年(1237)の奥書がある、神々を勧請する「祝詞」

諏訪市 文出八劍神社〈 旧文出(ふみで)村の産土神 〉

 祭神は、八劍大明神・日本武尊あるいは素戔嗚尊(明治二年の書上帳)。または、日本武尊・草薙劍徳(『長野縣町村誌』)。「八劍神社」の呼称は、明治六年の太政官通達以後。

豊田村史編纂委員会『豊田村史下巻』から要約

『祝詞段』では「…文出鎮守」

諏訪市 福島御頭御社宮司社〈 旧福島村の鎮守 〉

 福島村の鎮守で、あるときは八剣社といわれていたこともある。立川和四郎富昌が(本殿の)上棟式のために作った木槌には「八剱大明神上棟槌」・棟札には「奉再建八剱宮」とある。

中洲公民館『中洲村史』から抜粋

『祝詞段』では「…福島鎮守レイノゴゼ(禮ノ御前)」

茅野市 南大塩八剣神社〈 宮坂巻の祝神 〉

 宮坂氏同族が祀る神社である。…社付近の広い土地に八剣通りの地名を残している。宮坂氏の先祖は尾張の熱田神宮に使えた社人で、熱田神宮を分祀持参して一族と共に南大塩村に土着し八剣神社を祀ったと伝えられている。

南大塩の歩み編集委員会『南大塩の歩み』から抜粋

『祝詞段』に「湯川ニ子ノ神…八劔明神マデ」

諏訪市 小和田(こわた)八劔神社〈 小和田の氏神 〉

 八千矛神に日本武尊・誉田別尊を合祀。天正十八年高島築城に際し城地にあった八剱神社と高島村は現在地に遷された。

境内の案内板「八剱神社御由緒」から抜粋

『祝詞段』に「茅野川ニ…高島八劔辯才天


 文出と福島の八劍・八剣神社の名称には“なぜだろう”という興味を持ちますが、これより以降は、『祝詞段』に「八劔」が見える八劔明神(南大塩)と八劔辯才天(高島・小和田)の両社に絞って進めます。混乱を避けるために、小和田を八神社、南大塩を八神社と表記しました。

“諏訪やつるぎ神社の総本社”は

小和田にある八劔神社

八劔神社(小和田)
八劔神社(小和田)

 やつるぎ神社の中で最も知られているのが、旧社格が「縣社」である小和田鎮座の八劔神社です。高島から小和田に移転しても、代々の藩主による保護・崇敬が篤かったので、この神社がやつるぎ神社の“大元”と考えてよさそうですが…。

 松澤義章著『顯幽分兩記(けんゆうぶんりょうき)』に注目しました。

小和田村に座す八劔大明神と称(たたう)る御神の御古義の詳(つまびらか)なる説はいまだ聞かず、…此御社は往古南大塩郷にありけるを此地に移し奉りしときけり…

 勝田九一郎正履著『洲羽事跡考』からの抜粋です。

宮坂巻と蔦稲荷之事
 高嶋にある小はた村(小幡村・小和田村)という四方水にて水中の洲なりし由、…後に城築ありしとぞ、…(蔦稲荷は)本は小はた村に宮坂氏の農民の祖先の建立せし處という、…、
宮坂氏の事
 小和田むらの宮坂氏は…其の家系を聞くに、むかし、京より某親王さすらいに此地に来たり給いて、埴原田(はいばらだ)村の庵に居給いしと、…この親王の子孫小はたに移りて、…、

 以上の伝承から、現在の「京都→茅野市→諏訪市」という、八劔大明神を奉祭する宮坂氏の居住地の変遷が見えます。

南大塩の八剣神社

 『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』から転載しました。

一、南大塩村 …小平氏宮八劔宮有、是は小和田村宮坂氏の別家安右衛門登勧請すと云、…

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 次は、南大塩の歩み編集委員会『南大塩の歩み』から、「八剣神社」の一部を転載しました。こちらは「名古屋市→茅野市」になります。

 宮坂氏同族が祀る神社である。境内も社殿も大きく、社付近の広い土地に八剣通りの地名を残している。嘉禎三年の『祝詞段』にある古社である。宮坂氏の先祖は尾張の熱田神宮に使えた社人で、熱田神宮を分祀持参して一族と共に南大塩村に土着し八剣神社を祀ったと伝えられている。
 高島城が築造されたとき、高島郷の八劔神社が小和田郷に移された。その頃、南大塩郷の八剣神社には社宝として何枚かの鏡があり、その鏡を譲ってくれとの申し入れが小和田からあった。その申し入れは、城主日根野氏の威光をかさにきて拒否できないものであったが、当時鏡を保管していた宮坂某家では鏡を手放すのを惜しんで、一枚だけ庭先の胡瓜畑に隠し、残りを渡したという。以後その畑では胡瓜が育たなくなり、現在も胡瓜を作らないのが家伝であるという。
八剣神社(南大塩)
八剣神社(南大塩)

 ここでは、小和田の八劔神社との関係は書いていませんが、宮坂氏の一支族が高島を開墾し、鎮守として同じ八劔神を祀ったことが推察できます。
 諏訪では奇異とも映る「神体の鏡」と、これもまた、諏訪の神では奇名に当たる「やつるぎ」が何となく納得できます。さらに、高島は諏訪湖面の低下によって出現した新島ですから、宮坂氏の伝承に象徴される“外来の勢力”が、旧来の勢力と摩擦を起こすことなく入植できた可能性も頭に浮かびます。
 小口伊乙著『土俗より見た信濃小社考』から「八剣神社」の抜粋です。

 日根野氏が高島城を改築するにあたって、従来高島村に住んできた、いま宮坂性を名乗る人々の大半が下桑原と小和田に移住せざるを得なくなり、また一方南大塩に移住するものもあった。そこに祀ってあった八剣神社も御神体たる古鏡とともに南大塩へ移され、そこの八剣神社へ移っていった。
 天正年中(1573〜1591)織田氏亡び領主諏訪氏が復活に及び、神社が小和田に再興されて南大塩から古鏡もここに戻ったとされているのがいまの社である。

 ここでは、「高島から南大塩へ移住」という逆の流れを書いています。さらに続けます。

 古鏡の戻ったとすることについて、南大塩にいまも残っている面白い伝説がある。それは「諏訪家の役人が古鏡取り戻しのため南大塩へ出向いたとき、これを保管していた宮坂某の家の老姐が古鏡全部八面を返すのを惜しんでその中の一番珍しい古鏡を、一面そっとミホトの中へ隠して他の鏡だけ返した。あとで老姐はこの鏡を庭のササゲ畠の中へ埋蔵した。然るに不思議なことには、この畑に生ずるササゲはその味が苦くて一つも食べられなかった。故にこの家では今にササゲを作らぬことになっている」というのである。
 八剣神社は八剣明神とも呼び、八剣様と村内では呼ぶのが普通でもあった。
八剣神社(南大塩)
八剣神社本殿(南大塩)

 鏡は“おばあさんの女性自身”に入る程度の大きさと知れますが、それより、南大塩側の「譲った(取られた)」を「取り戻した」と書いています。この差は、端的に言えば、それぞれが「我が社が本家(社)」と主張する上での表現の違いということでしょう。

 『八劔神社の考察』は「高島・八劔・辯才天」が“主題”です。そのため、私が原村の住人ということもあり、(中立の立場を取って)やつるぎ神社のルーツは茅野市か諏訪市か、または京都や名古屋市なのかを判定することは避けました。


八劔神社の考察(2)「辯才天と十一面観音」