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辯才天と十一面観音 −八劔神社の考察(2)− 25.7.8

 断りがない限り、引用文献は諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』です。

 諏訪には“やつるぎ”神社が三社ありますが、今回取り上げるのは、諏訪市小和田(こわた)に鎮座している八劔神社です。

八劔神社 その八劔神社は、諏訪湖中の「高島」から現在地に移転したという歴史を持ちます。そのため、旧鎮座地との境をしっかり線引きしないと、これから始まる話に「何を言うか」との声が続出しかねません。
 まず、「八劔神社が小和田に移った年を、天正18年(1590)」と挙げてみました。しかし、天正と言ってもピンときませんから、大ざっぱですが(最もわかりやすい)「まだ豊臣秀吉の時代(1598年死去)」とし、この移転の前後を「高島時代」と「小和田時代」に分けてみました。繰り返しますが、“一般に言われている八劔神社の由緒”が記憶に刻まれている方は、いったん埋め戻してください。

高島時代の八劔神社

 『祝詞段』に出る「高八劔辯才天」が、鎌倉時代中期頃の八劔神社とわかります。しかし、これを「八劔」と「辯才天」とに分けるべきか決めかねていました。改めて、同書の冒頭に出る諸国の神々から「辯才天」を拾うと、「竹生辯才天・エノ(江ノ島)辯才天・三…八之(※八ヶ所の)辯天」がありました。辯才天は何れも“島”に絡んでいますから、通しで「高島の八劔辯才天」神社と読むのが正解としました。

『祝詞段』の詳細は、〔上社散歩道メニュー〕の[嘉禎三書]を参照。

辯才天・十一面観音

 天正7年(1579)の奥書がある、諏訪神社上社の造営帳『上中下十三所造営』から抜粋しました。

八劔 辯才天(※本地仏)
安藝伊筑嶋同躰御神也、夫大海中仏世之御袈裟有之
(中略) 仍御造営之時者懸海中船別銭建立之

 「その大海の中に、仏の世の袈裟がある」が理解不能ですが、平清盛が庇護した広島の厳島(伊筑嶋)神社と同じ神を祀るとあります。厳島神社では、祭神の市杵嶋姫(いちきしまひめ)命が弁才天と習合し、本地仏の十一面観音が祭られています。
 ネットで得た情報ですが、HP『厳島』から、久保田収「神道史の研究」とある〔厳島神社における神仏関係〕を転載しました。

www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/ITSUKUSHIMA.html
 神仏習合の結果は、本地垂跡の思想が生まれたが、これは厳島神社においても例外ではなかった。現在、大聖院に安置する十一面観音は、明治の神仏分離までは、厳島神社の真後ろにあった本地堂すなわち観音堂に安置されていて、平安時代中期のものと考えられる。これは、『芸藩通志』に「仏氏は観音を以、明神の本地といふ」とあるように、厳島明神の本地を十一面観音と考えていたことを示している。(中略)
 また、本地を十一面観音とする考えと、大日如来とする考えとが、両々流れていたためであろう。

八劔神社の別当寺「甲立寺」

 現在も八劔神社に隣接している甲立寺の境内に、「…もと高島にあり、八劔神社の別当寺で武田信玄が再興し、日根野高吉によって現在地(小和田)に移され…」とある案内板があります。別当寺をわかりやすく言い替えれば「神宮寺」となりますから、甲立寺と八劔神社は、現在も“一心同体”ということになります。

甲立寺の観音堂

 以下は、当時の名称である甲龍寺に残る、天正7年の『武田勝頼朱印状』の一部です。ここに、「観音堂」が出てきます。

自前々被抱来候由仍上桑原貳貫五百文之所并高嶋観音堂於尚向後不可有…

 諏訪史談会『諏訪史蹟要項上諏訪編』(以下『要項』)の「甲立寺」から、〔草創〕と〔本尊〕の一部をピックアップしました。

 甲立寺及観音堂は創立年代未詳なれど、古伝に云く、往古は鵞湖(※諏訪湖)の南方高島に位置して萱葺きなりしが、永禄年間武田信玄之を再興す。其後文禄年中日根野織部正高島城を築くの際、当山及観音堂を現今の位置(小和田)に移せり。(後略)
(明治二十八年県知事へ提出の寺院取調書)
 当山の本尊はもと大日如来であって、現在の本尊となっている十一面観世音は、境内に別に観音堂があって安置してあったのであるが、観音を信仰する者多く、又旧本尊よりも厨子といい作といい大きく且つ勝れている為に、自然の勢いとして、何時しか観音が本尊となったものであると。
(当住職談)

 甲立寺は、高島時代から、本堂とは別に「十一面観音堂」があったことがわかります。これで、「八劔神社とその別当寺」の結びつきが、『上中下十三所造営』が挙げた「厳島神社(伊筑嶋)」の“構造”と重なりました。

小和田時代の甲立寺

 八劔神社と密接な関係があるとわかった甲立寺ですが、移転後の状況について調べてみました。

観音堂の焼失

…同村甲立寺天保十四年五月二十七日夜橋本屋酒屋より出火、同寺観音堂・八劔神社・教念寺類焼す、…其後観音堂不建、客殿へ相殿に勧請致す、
『諏訪郡諸村並舊蹟年代記』

 甲立寺の観音堂は天保14年(1843)に焼失し、再建されなかったことが書いてあります。また、観音像は本堂で本尊大日如来とともに祭られ、それが現在まで至っていることがわかります。

再び「八劔 辯才天」

 諏訪史談会『諏訪藩主手元絵図』と、長野県古地図刊行会『慶応四年信濃国高島城下町絵図』を参照してみました。いずれも復刻版の一部です。

八劔神社古絵図

 社寺共に焼失した天保の前後となる古図ですが、双方に観音堂と思われる堂宇()が描かれています。『舊蹟年代記』では再建されなかったはずですが…。
 どういうことかと、昭和26年発刊の『要項』を開くと、“運”良く「甲立寺平面図(現在)」がありました。問題の場所には、「辯天」と「池」が枠として描いてあります。そのため、焼失した観音堂の跡に「辯財天祠(※同書の名称)」が建てられたと判断しました。

甲立寺「弁天」
東京美術『復刻甲州道中分間延絵図』(上諏訪宿の一部)

 『甲州道中分間延絵図』を見つけました。文化3年(1806)とありますから、『諏訪藩主手元絵図』より72年後で、大火の前37年という時代です。
 さっそく甲立寺の赤い鳥居に注目すると、池の中にある(ようにも見える)祠が確認できました。さらにその左上を拡大すると、…「弁天」と読めます。これまで観音堂とした堂宇ですが、どうやら当初から弁天祠であったことになりました。観音堂は別の場所にあったのでしょうか。

平成の甲立寺

八劔神社 甲立寺の山門です。右奥の木の中が八劔神社の本殿ですが、甲立寺とは逆の社殿配置なので、正確には「本殿の後方部が見える」という説明になります。
 久しぶりとなる山門をくぐり、これまでにマーキングしてきたキーワードを絡めて、現在の八劔神社と甲立寺の境内を眺めてみました。

甲立寺「辯才天」

 『要項』で「辯天」とある場所には、辯財天祠がありました。しかし、その前にあるはずの池はその痕跡ですら残っていませんでした。『要項』が編纂された時にはまだ池があったということでしょう。因みに、その祠については「年代不詳、像はない」と書いてありました。

甲立寺本堂 本堂の扉が一部ガラスなので、拝観と撮影を兼ねて覗いてみました。真っ先に目が行った定紋幕は、諏訪大社ではなく諏訪(藩主)家の家紋とわかりました。
 『諏訪史蹟要項』では、中央が十一面観音で脇が大日如来という書き方なので、「多分、右側が如来様」としか説明できません。その大日如来ですが、甲立寺の“元”本尊であったことから、〔厳島神社における神仏関係〕にある「両本地仏(大日如来・十一面観音)」とも一致します。

本殿と観音堂(本地仏)と弁天祠で「八劔弁才天」

 厳島神社では「本殿の後方が観音堂」です。諏訪大社上社も幣拝殿の後方に普賢堂がありましたから、高島での八劔神社でも同様だったと考えられます。しかし、すでにできあがっている「町割」の中に移転したという事情がありますから、本来のレイアウトにするのは無理があったのでしょう。

甲立寺 再び『復刻甲州道中分間延絵図』を眺めると、他の寺社では本堂・本殿で表示されている建物があることに気が付きました。当初は山門と見ていた堂宇です。
 これが観音堂ではないかと気が付き、改めて『諏訪藩主手元絵図』の八劔神社と比較してみました。本殿の前にある神楽殿が町屋と同じ“凡例”で描かれていますから、甲立寺にあるのは、規模から言って本堂と観音堂になります。本堂は現在と変わらぬ位置として、八劔神社の本殿と甲立寺の観音堂は並立していたとしました。

船別銭

 再び、高島時代の昔に戻ります。前記の『上中下十三所造営』にある「海中船別銭」に関した、永禄9年(1566)『武田信玄定書』があります。書き下し文にして転載しました。

八劔宮造営之事、船役を以て之を勉むる由本帳の文に任せ、今より以降七ヶ年に一度船役を執(取)り、相当に造替すべきもの也、仍って件の如し、

 このような「諏訪湖の船から税金をとって式年造営をしろ」という文書が幾つか残っています。この神社のみの造営銭の取り立てですから、八劔神社は諏訪では異色の神社ということがわかります。これも、古くから川・池・湖に因むのが“辯天社”という観念があり、八劔神社や甲立寺を再興した武田信玄も先例に倣ったのでしょう。

八劔神社は弁天社

 甲立寺や八劔神社の“関係者”が以上に挙げた“こと”を自覚しているのかどうかはわかりませんが、高島時代から平成の世になっても、私には何とかその体裁を保っていることを見ることができます。


八劔神社の考察(3)八劔神社「社名の由来」