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鋳物師屋御社宮司社 茅野市米沢鋳物師屋 21.5.23

 「茅野市米沢字(あざ)宮3212」は、長野県神社庁のHPにある御社宮司社の住所です。ネット地図は小字(こあざ)を省略しているので、番地を表示する『MapFan'Web』を選びました。
 「米沢3212」で御社宮司社は見つかりましたが、近くに「鋳物師屋(いもじや)」の地名と「鋳物師屋公民館」を表示しています。珍しい地名なので名前だけは知っていましたが、あの辺りという程度ですから、読みも「いものしや」で済ませていました。今は地図上ですが、改めて鋳物師屋と御社宮司社の位置が確認できました。「米沢」では大ざっぱなので、「鋳物師屋」を加えて「鋳物師屋御社宮司社」としました。

鋳物師屋御社宮司社

 鳥居がなければ神社と気が付かないような社地と社殿でした。昼時と重なって、工事関係者の車が参道に二台も乗り入れています。大きくドアが開いていますから、昼寝の邪魔をしては、と右側の空地を大きく回り込んで鳥居をくぐりました。

米沢御社宮司社 本殿は覆屋の中なので、外からは全く見えません。“正攻法”で本殿正面を、と拝殿の格子戸から伺いますが、本殿前の扉が一枚板なので、その一部も見ることはできませんでした。密閉している扉の左右には「諏訪梶」の神紋がありました。
 鳥居は明治期でしたが、御神灯の元号は諏訪では珍しい「元文」でした。自宅で調べると1738年と古いものでした。

 米澤村村史編纂委員『米澤村村史』から、関連する項目を幾つか拾ってみました。

鋳物師屋新田村
 鋳物師屋新田村は、正保四年(1647)に成立したことになっているが、鋳物師屋の地名は天正十八年(1590)の検地野帳には字名として記載されている。初め鋳物師が居住していたが、離村して「鋳物師屋」の字名が残ったといわれている。
 鋳物師屋新田村は、埴原田村を親村として発足したとされているが、単なる新田ではなく、新田開発以前に村落は存在しており、『米沢村史蹟踏査要項』によると、「諏訪藩が領内の貢租の増加を図ることに起因するものであって、村落としては既に慶安元年(1648)」に新田に定立される以前に完成していたものと思われる」となっている。
御社宮司社
 いつ頃から祀られたものか不明であるが、『諏訪藩主手元絵図』によれば集落の村外れに位置していることがわかる。鳥居の掲額「御社宮司社」の文字は、明治時代の有名な書家であり明治天皇の書道の師匠とも伝えられる巌谷修の揮毫によるもの。東側は行屋の跡地平地であり(後略)。
行屋鋳物師屋の行屋
 村民が参篭して五穀豊穣・地域の安泰を祈念して二百十日を中心に一週間ほど籠もった建物で、公民館が建てられるまでは行政区の事務所として使われた。

 巌谷修さんは、今「文字」として知りましたが詳細は全くわかりません。「行屋」ですが、写真が添付してあったので、参道と社殿の右側に広がる草原(くさはら)の存在理由が納得できました。また、鋳物師屋新田村の御社宮司社ですから「鋳物師屋御社宮司社」としたのは大正解でした。