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洩矢神社は“花岡村から移遷” 29.9.23

 「花岡村・橋原村」は明治初期までの呼称で、現在は岡谷市湊花岡・岡谷市川岸橋原です。

 自サイトの『洩矢神社』では、〔神社創立の年月は不明〕の項に、概略として以下のように書きました。

 諏訪には、神々を勧請する(呼び出す)祝詞を文字化した『祝詞段』があります。嘉禎三年(1237)の奥書があるので、それに登場する神社は中世には存在していたという一つの証明となります。
 その『祝詞段』は、諏訪湖の西岸から天竜川にかけては、有賀村・小坂村・花岡村・駒沢村の神号を挙げています。ところが、なぜか、橋原村鎮守「洩矢神社」の名はありません。そのため、洩矢神社は、嘉禎以降に創立した神社ということに…。

 これを、少し具体的にまとめてみました。

小坂村 小坂鎮守(小坂鎮守神社)

花岡村 ヲタイニ鎮守(船魂社)・花岡三ノウ(日吉社)

白波ノ大明神(白波社)

橋原村 ──

鮎沢村 ──(天正年中駒沢村から分村し、安永年中に鮎沢諏訪社創建)

駒沢村 駒澤鎮守(駒沢諏訪神社)

 鮎沢村は、歴史が新しいので納得できます。しかし、書き落としたかのように、洩矢神社はお呼びが掛かっていません。

洩矢神社は、花岡氏の氏神!?

花岡村と橋原村
 紛らわしくなるので、花岡氏の氏神を「洩矢社」・橋原村の鎮守社を「洩矢神社」と表記しました。

 花岡区誌編集委員会『花岡区誌』に、あくまで私の基準ですが「おー、これは!!」という記述がありました。〔第七章 文化〕から[村の伝承]を転載しました。

山の神と水神 (前略) 山の神の祭神は大山祇神とされているが、守屋山に続く西山の山の神は洩矢の神を祀るという根強い信仰もあったようである。
龍源山の神 『村地図(諏訪藩主手元絵図)』には「左山神」とある。他の山の神がすべて単に「山神」とあるのに本社だけが「左」とあるのは、今日まで疑問となっている。この山の神はしこめ(醜女)であり、左目だけであったという説。「枝垂山神」の転化ではないかとの説などがある。

 この「左山神」を、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』の〔花岡村・小坂村〕に示してみました。

左山神(花岡村)
まぼろしの村 明治四年の花岡村の地図には、字垣外田(かいとだ)、御堂(みどう)小屋(現川上)地籍には人家はない。前掲御堂小屋の阿弥陀堂の言い伝え(享禄二年(1529))によると、室町時代には部落があったことになる。
 権現の小口姓は、垣外田から室町・桃山時代に移り住んだということはよくいわれており、牛山増太の小口姓由来にも書かれている。
 ここに別の言い伝えがある。それによると承応・明暦(1655−1657)のころ(四代将軍家綱のころ)垣外田・御堂小屋にはニ十数軒の部落があった。部落の人たちは「山の神」の項で述べた「左山之神」の位置に洩矢神を祀り、「産神様」とあがめて、花岡・小口・山岡・浜等の姓を名乗っていた。
 明暦(1655-)のころから移動が始まった。花岡姓を名乗る一軒が橋原へ移った。その時洩矢の神を氏の神としてお連れ申した。その社の跡へ山の神を祀って松の木を植えたところが、枝栄えみな枝垂(しだ)れたので「枝垂(しだ)れ山之神」と呼んだ。
(中略)
 なぜこのような大きな部落がここを離れたかについては、天竜端は洪水の害、御堂小屋辺は天竜川を吹き上げる季節風や、水便の悪いことによる火災のおそれ等があげられている。

 ここに、「江戸時代初期に、花岡さんが洩矢神と共に橋原へ移住した」と書いています。『花岡区誌』に目を通した人の多くは読み流したと思いますが、私は、「もしかして」と頷いてしまいました。

華岡氏の灯籠

 「𫝍」←スマホやMacでは(多分)表示しません。画像では「岡」です。

洩矢神社の灯籠 写真は洩矢神社の石段脇にある一対の灯籠で、竿に「𫝍」と彫られています。私の辞書には該当するものがありませんが、イメージとして見ると「華岡」が近似字で、諏訪の姓では「花岡」に通じます。
 長らく「華岡だろうな」で終わっていましたが、〔まぼろしの村〕を読んだことで「華岡」で間違いないことを確信しました。ネットで調べると、それぞれの異体字と俗字で、「奉神納 𫝍氏 傳兵衛保」「明和四年(1767)丁亥稔初冬吉良日」となりました。

洩矢神社
洩矢神社

 傳(伝)兵衛さんが橋原村に洩矢神を移遷させた華(花)岡氏の子孫である確率は極めて高いので、「花岡氏が橋原の地に新たに祀った洩矢神が洩矢神社」と重なります。また、奉献が「(橋原)村中」ではない「氏」であることが、強力な接着剤となります。

「京塚原」

京塚原
『花岡区誌』〔地学図(1)〕(部分)

 『花岡区誌』で洩矢社の旧跡地である「左山之神」の場所を探すと、〔花岡の石造文化財一覧表〕に「昔左山神という、中央道通過で移転」とありました。

 「移転したのなら、現地へ行っても意味ないか」としましたが、「位置 京塚原」に注目しました。橋原にも「京塚原」があるからです。折込の地図で探すと、御堂小屋の山際に京塚原 ※がありました。

同書によると、元禄以前は「経塚原」

洩矢神社 左は滝沢主税編『長野縣町村繪地圖南信篇』〔橋原村〕の一部で、洩矢神社の側方にあるのが耕地京塚原です。ただし、『諏訪藩主手元絵図』や、新しいところでは発掘調査報告書『経塚(経塚原)遺跡』が「経塚原」を使っています。場所は、洩矢大神御舊蹟碑がある辺りの耕作地と考えてください。
 私は、花岡氏が「洩矢社と鎮座地縁(ゆかり)の京塚原を、移住先の橋原村に再現した」と考えました。

洩矢神社は、花岡氏が奉斉した洩矢神を祀る氏神社

 [村の伝承]および『花岡区誌』全般では、橋原村の洩矢神社との関係を一切述べていません。隣村という関係と、境内にある『洩矢神社由緒略記』の“濃厚な内容”から、洩矢神社の氏子や橋原区民の感情に配慮したのかもしれません。私も、あくまで[村の伝承]として、「洩矢神社の前身は、花岡村の洩矢社」と声を挙げるのは控えていました。
 しかし、「京塚原」という新たな“事実”が出てきたことで、と言っても状況証拠でしかありませんが、両村とは中立の立場になる私は「花岡村の洩矢社→橋原村の洩矢神社」と断定することにしました。

洩矢神社に合祀されている藤島神の謎

 「洩矢神社は、花岡氏の氏神」と断言してしまったので、私が密かに考えている「橋原村の元々の鎮守神は藤島明神だった」ことを前提に、その後の経過を考証してみました。

洩矢神社灯籠「花岡氏」
洩矢神社の灯籠「華岡氏(花岡氏)」

 まず花岡氏の子孫が栄えて分家が増えてくれば、先住の村民であっても、彼らが奉斉する洩矢神を無視することはできなくなってきます。
 それによって生じた確執に〔守屋山麓御垂跡事〕の伝承が絡まり、「藤枝云々」が天竜川を挟む形まで発展したのでしょう。
 時が経ち、勢力が逆転したことから、藤島神は洩矢社に取り込まれ、現在の「合祀藤島明神」という洩矢神社が成立したとしました。

龍源山の神(左山の神・洩矢社旧跡地) 29.9.24

 『花岡区誌』の〔龍源山の神〕を読み直したら、「中央道の通過により、その工事用道路として拡幅があり、やむを得ず一段上へお移し申した。移転に際し龍源山の神と呼称した」とあります。

左山の神
龍源山の神(
龍源山の神・左山の神
龍源山の神(左山神・洩矢社旧跡地)

 「それなら旧蹟地を確認する価値があるではないか」と出掛け、ここに紹介したのが遠景と近景の写真です。その通りで、道より上の段に鎮座していました。因みに、前の道は、諏訪湖の伝説に登場する「鯰坂(なまずざか)」です。

 この足で洩矢神社まで行き、『洩矢神社は、花岡村から移遷』を作成したことを報告しました。その道中(鎌倉街道)で目にしたのが、どれもこれもという「花岡姓の墓石」です。調べたわけではありませんが、花岡姓は、花岡より橋原の方が圧倒的に多いと思われます。

最後に

 『花岡区誌』にある「守屋山に続く西山の山の神は、洩矢の神を祀るという根強い信仰もあった」に、大きな示唆を受けました。
 『諏訪藩主手元絵図』では、西山(諏訪で言う西部に連なる山)で守屋山に接している村では、その場所には必ず「守矢大神」の祠が描いてあります。それも「山の向こう側」という描き方ですから、常に、各村共通の「山の神の総本社」といった捉え方があることに留意すべきと思いました。