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下金子 御頭御社宮司社 諏訪市中洲下金子 31.3.16

 平成19年に金子八幡社を参拝した折に、この御社宮司社にも立ち寄っていました。ミシャグジとあればさっそくアップしたいところですが、関連資料が見つからないこともあって保留としました。しかし、その後も状況が変わらないので、写真だけでも、と紹介することにしました。

 この御社宮司社は「御頭」を冠していますが、『諏訪藩主手元絵図』には載っていません。現代の地図では、小泉寺を基準にすれば中金子ですが、金子八幡社の位置からは下金子に入ります。微妙な場所ですが、中洲公民館刊『中洲村誌』の〔下金子村を行く〕に写真と記述があったので、下金子の御社宮司社と確定しました。

下金子 御頭御社宮司社 31.3.9

 写真を撮り直すために現地に向かいました。ところが、「あれが御社宮司社」と指を差せても、そこへ向かう道が見い出せません。

下金子「御頭御社宮司社」

 「前はどう行ったのだろう」と訝(いぶか)りながら、大回りですが君市橋から堤防道路を伝って戻ると、この景観が現れました。

下金子御頭御社宮司社 こちらも道がありません。人目が気になるので、最短である畑中を歩くのは避け、上写真の祝神二社を表敬参拝しながら近づきました。
 遠目ではよくある野辺の石祠ですが、標柱に「御社宮司社」を読むと、その存在感が増したように感じるのが不思議です。

下金子 御頭御社宮司社 向拝柱が失われているので、猪目の透かし彫りが直に目に入ります。それと共に「社宮司」が読めますが、彫りが浅いのか、その上の「御」が「倫」と読め、一瞬ですが戸惑ってしまいました。
 身舎の三方を確認しますが、彫りはありません。文字のラインが曲がっていることもあって、この「御頭御社宮司」は後世に刻んだものとも思えてきました。

絵図にあった

 『中洲村誌』〔城址と集落〕を開くと、「頼忠が関東へ持参した金子八幡の図面写」とある絵図に目が留まりました。「もしや」と、鳥居の前にある墨の汚れのような部分を注視すると、小さな祠が描かれ「御社宮司」と読み取れました。天正18年のことですから、1590年には鎮座していたことがわかりました。