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『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に見る洩矢神社 1.9.7

『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』

 私は、著者の主観が入っていないこの書が面白く、よく引用しています。今回は、どのような書物かを巻頭にある「書物解題」から紹介します。原本は『諏訪史料叢書第十四巻』で昭和初頭の刊行なので、厳(いか)めしい表現になっています。

諏訪郡諸村並舊蹟年代記 一冊 所蔵者 永明村 石田眞一
諏 訪 郡 見 聞 記 一冊 所蔵者 中洲村 金子安蔵

諏訪郡諸村並舊蹟年代記の著者不知、叉未だ原本の採訪に逢着せず。今兩書を對照するに金子本は石川本よりも更に後の轉寫なるが如し。而して二者何れも大同小異にして、金子本の表題に示すが如く全く諏訪郡各部落の舊事見聞随筆記にして、著者一代の見聞記を部落別に整理せられたるものと言ふべし。従って豫め一定の調査要項を定めて記載したるものにあらずして、各部落特有の史實傳承等をば著者獨自の筆致によりて蒐録せられたるものなり。されば今より是れを見れば必ずしも信憑するに足るべきもののみと斷ずべからざれども、著者の意を尊重し編者の意に依りて改訂を旆すを避け、以てその原義を窺知するの便りとなしたり。

 ここでは「必ずしも信憑するに足るべきもののみと斷ずべからざれども」と(私には)理解不能の言葉で述べていますが、他書を参照しても大きな矛盾がないので、私は積極的に紹介しています。

『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に見る洩矢神社

花岡村と橋原村
渡辺市太郎編『信濃宝鑑』〔洩矢神社之景〕

 この『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』(以下『年代記』)から、洩矢神社に関係する箇所を抜き書きしてみました。原典は、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第三巻』です。

この書は、洩矢神社を守屋大明神と表記しています。

一 真志野村善光寺 (中略)
伊奈郡長岡村方入會貳拾八ヶ村、真志野村と元禄十一年より出入に及、十三年め寶永七寅年(1710)相済御繪圖面頂戴、(両)真志野村山元附村六ケ村-大熊村・田部村・下金子村・文出村・小川村・有賀村、五ヶ新田-上野新田・除石新田・後山新田・椚平新田・板澤新田、又作左工門新田共守屋大明神之社は守屋要人殿へ頼ミ氏神と申立、長岡作左工門新田五軒潰れ六軒目作左工門家天龍川西木之下村片倉村より(より)平出村迄之内(※作左工門新田は辰野村)

 入会権についての話で、西山の村々が「洩矢神社を守屋要人の氏神にしてもらった」と書いています。守屋要人は五官の一つ祢宜太夫です。神長官家(守矢)とは本家・分家の関係ですから、これが「洩矢神社は神長官家の氏神」との話にすり替わった可能性があります。
 この「守屋大明神之社」は、新田村を含めた十一ヶ村が絡んでいるので守屋山にある物部守屋神社奥宮のこととも思えますが、以下に「橋原村 守屋大明神」とあるので洩矢神社としました。

一 橋原村 守屋大明神神領壱石、社地に池有、古は女人社地に入時は惣(たちまち)水赤く成という、御柱の後神長官参詣有之(これあり)、御柱は上社弐ノ朝立ル、此村之人善光寺へ参詣不成(ならず)と云
 弘化二(1845)始テ天竜川え長サ三十二間橋掛ル、同宮(※洩矢神社)三澤村荒神社森ふじ相向いからみ合川中へ懸り洪水之節落水の障(さわり)に相成、上筋にて願上、御上様ニ而切払候所、御殿様御病気之節神ノ御口開キ右之事ニ障との譯(わけ)ニ付年々一石宛下さる、

 橋原村民は、洩矢神社の祭神を「物部守屋」と捉えていることが窺えます。

一 橋原村守屋社三澤村荒神社元天龍川端ニ而(して)大木え藤からまり茂盛して日中も其下闇夜之如く、
客来様の節明神願候得は(そうらえば)朱椀其外種々之器物御貸し被下(くだされ)、或時椀かさ一つ紛失損し候哉、御詫不致(いたさず)御返納致し候處、其後御立腹哉、其事無と云、両村両社共山際え引今之所勧請す、
上原村九頭井社(葛井神社)・中澤村瀧之御膳社(多留姫神社)器物杯御拜供之儀有同断之由、又福嶋御膳樣(禮の御前社)右同断、寛政之頃より池無之と云、

 前文と同じく「藤島社」は登場せず、藤が絡んだのは荒神社と書いています。次の“椀貸伝説”ですが、洩矢神社と荒神社間の貸し借りなら「両社共山際え引」となって面白いのですが…。よく読むと、最後の「寛政之頃より池無之」から、村人が洩矢神社の池を通して器物を借りたという話に落ち着きます。
 いずれにしても「両社山際へ退く」は重要なキーワードです。現在の景観では荒神社が移動した形跡はありませんから、荒神社を藤島社に置き換えると、山際にある「藤宮」の存在理由が説明できるようになります。ただし、相対する「三沢村」には、これらの話は載っていません。

 『年代記』の紹介にかこつけて、それに載る「洩矢神社」を紹介してみました。