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茅野氏(千野氏)の祝神「祝殿社四社」 茅野市小町屋樋沢 29.9.30

 資料では「千野氏(茅野氏)」の表記ですが、鳥居に「奉献 茅野氏」とあるので「茅野氏(千野氏)」としました。

「祝殿社四社」(写真は、9.17撮影のもの)

 前宮の旧参道「中小路」沿いに、柏手社(かしわでしゃ)があります。石祠の正面を前にして立つと、左後方に、斜面に石垣を築いて平地をなした更地があります。石垣の中央寄りには宅地で見られる石段があるので、かつては家が何軒か建っていたことがわかります。

千野氏の祝殿社

 その前を奥に続く小道を伝うと、祠が三棟並んだ神社()があることは以前より知っていました。

千野氏の祝殿社四社

 去年、安国寺区誌作成委員会『安国寺区誌』を読む中で、添付の写真が「祠が三棟並んだ神社」と同じものであることに気が付きました。改めて読み直すと、諏訪神社上社外記太夫家の祝殿社でした。

祝殿社四社(千野氏)
 小町屋字樋沢(ひざわ)に、社地一一三余坪に天児屋命(あめのこやねのみこと)・太玉命(ふとたまのみこと)・天鈿女命(あめのうずめのみこと)・思兼命(おもいかねのみこと)が祀られている。
 千野家の資料によると、「当所ノ創立ハ不明ナレドモ、旧社家ノ千野家ニシテ、八乙女ヲヒキイテ太夫頭トシテ奉斉セル、旧外記太夫及其ノ一族ノ祝神トシテ奉仕セル神社デアル」とある。
 旧屋敷の南隅に祀る神社で、明治中頃まで四社あったが、式年造営の経費の節減によって現在は一社になり、一宇に四座合祀され、講員十一戸となっている。

 「旧屋敷の南隅に祀る神社」から、冒頭の土地に、かつては外記太夫家の屋敷があったことがわかります。諏訪神社の多くの社家は明治期の“社変”で諏訪を離れたそうですから、空き屋が年とともに老朽化し、取り壊しから更地になったのでしょう。「うーん、今はただ風が吹いているだけか」と、どこかで聞いたような詞がイメージとなって頭を過(よ)ぎりました。

 外記太夫家の祝殿社については前記以上の情報が得られないので「祝殿社四社」で検索すると、意外に多く表示します。しかし、何れも“実”がないデータベース的な内容です。『長野県神社庁』のサイトで確認すると「祝殿社四社 茅野市宮川字樋沢(ひざわ)2560」が載っているので、これをベース(情報源)にしたものと納得できました。
 「これは便利」と喜んではいけません。表示する地図を確認すると、大字(おおあざ)「宮川」の不特定の場所に所在地を示しています。小字(こあざ)や番地を無視しているので、これを信用すると、宮川の各所をウロウロすることになります。以上、紹介文が乏しいので、余分なことを書いてしまいました。

千野氏の祝殿社 境内から前宮方面を眺めると、柏手社背後の大ケヤキが見えます。柏手社の案内板に「前宮の神前に供えるものや饗宴の膳部を調理したところと思われる」とあるので、外記太夫の職種から見て、前宮の神饌は屋敷の一角で調えられたのかもしれません。

三棟なのに、「祝殿社四社」とは…

 現在は社殿が三棟という構成ですから、ここに一つの疑問が持ち上がります。転載文からは、中央のやや大きな社殿に四柱(神)を合祀したと理解できますから、両脇の祠の正体は何だろうということになります。手前はその色から稲荷社とも思えますが。

「祝殿社三社」 29.9.29

 千野廣著『千野(茅野)氏概説』に、これについて“何か”書いてあったことを思い出しました。図書館に出向いて、〔52 茅野(千野)氏の新居小町屋(第四居館)〕を転載しました。

 慶長6年(1601)、頼忠の長子諏訪頼水が、上州総社の地から、旧領諏訪の地に復帰を許されて戻り、初代の高島藩主となり、日根野高吉の築いた水城たる高島城に入り、その四男 諏訪頼廣は大祝となり、その居館を小町屋から宮田渡(神宮寺の東北)に移すに及んで、総社の地から戻ってきた茅野氏は、小町屋における大祝の居館跡に入った。その地は前宮の十間廊の東南隣接地から、地蔵小路にいたる一角の高地で、今はその地は、家老屋敷跡と呼ばれている。家老茅野氏がそこに入ったので、そのように呼ばれていると思われる。
 この茅野氏の居館の西上部には、潔斉屋(行事殿)として二殿が設けられ、その一宇は千野光親・千野光弘を祀り、他の一宇は天児屋根命・大霊命・思兼命・細女命などを祀っていたが、後年、享保年中(1716-35)に新たに二殿を建て加え、四殿となしたので、これを四宇四祝殿と称した。
 増設された二殿中、右殿は光応家、左殿は信徒一同に対するものであった。
 茅野氏金子城内の鎮守八幡神社の神職茅野光則の子、土佐式部貞光の子、出雲内之進光資の五代の孫が茅野光応である。
 この茅野氏の居館のすべては、現在は消失してしまって、その影だにも見られず、そのあたりは、一面に畑地となっており、その間には地方人の住居が点々と建てられている。
 上記の四宇四殿は、その消え去ることが惜しまれ、その中の三殿が、小さな祠に改造されて、地方人によって祀られ、わずかに、ありし頃の茅野氏の居館はここだとばかりささやいているかに見える。
 前節〔51〕に記した神官、出雲守外記太夫光則の一子、外記太夫出雲久米之進光貞の後裔、茅野光英氏は現在この地域内に居住している。

 センテンスが長くて読み疲れしましたが、左・右の祠が信徒一同・光応家とわかりました。これで、『安国寺区誌』の記述は不適切、というか、説明不足による意味不明になっていたことが判明しました。

 著者の千野廣さんは千葉県市原市在住ということですが、よくもこれだけ調べたものと感服しました。