諏訪大社下社春宮では、明日は里曳きという夜に宝殿遷座祭が行われます。御霊代を新築または改築した宝殿に移す神事で、神霊は新しい社殿で新しい御柱を迎えることになります。ところが、下社は毎年「秋宮から春宮・春宮から秋宮」へと半年交替で遷座しますから、6年に一度の御柱年は「遷座」が何回も続き、神職と神事に奉仕する関係者は多忙を極め神霊も落ち着かない年になります。
具体的な日程を挙げると、2月1日に秋宮西宝殿から春宮西宝殿に移り、御柱の里曳き開始前夜に隣の東宝殿に移り、8月1日になると(また)秋宮の東宝殿に引っ越しをします。どうしてこんなシステムを作ったのか理解できませんが、神様の世界のことなので…。混乱を避けるために、今日行われる遷座祭は「宝殿遷座祭」と表記しました。
宝殿遷座祭の前日には、新宝殿の竣工式である「葺合(ふきあえ)祭」があり、「今回は、春・秋両宮とも東宝殿を建て替え、御簾(みす)など調度品も新調した」と報じていました。市民新聞グループ発行『おんばしら』で確認すると、以下のようにありました。
新聞記事の「春秋とも建て替え(新築)」から「葺合祭」の表現が微妙ですが、今ではすべて葺合祭で済ませているということでしょうか。
傘を差しての撮影を覚悟していましたが、出かける頃には上がり、時間が迫ると星が見えてきました。
午後8時、神職と参列者の行列が鳥居をくぐって粛々と進んできました。
そのまま幣拝殿へ進まずに境内に張られたテントの下に入ったのは、遷宮に先立って行われる修祓をするためでした。
写真ではよく見えませんが、神職は「木綿襷(ゆうだすき)」をたすき掛けにしています。宮司と権宮司は、冠に木綿鬘(ゆうかずら)も付けているのがわかります。かつての「上社御頭祭」では「神使(おこう)に木綿蔓を掛ける」と書いていますから、このような姿だったのでしょう。この後、長野県神社庁の献幣司が右片拝殿・諏訪大社の神職は左片拝殿に着座し、大総代と参列者は神楽殿に詰めました。
どちらに陣取るか迷いましたが、遷座先の東宝殿側を選択しました。
「宮司が西宝殿を開扉(かいひ)しました」と、スピーカーを介して式次第の声が伝わってきます。この場所からは反対側なので見えませんが、西宝殿側も片拝殿の格子を透かしての見学なので、神職の動きだけが見える程度とわかっています。それでも、少しでも撮影条件の良い場所を求めたい気持ちはあります。しかし、下社では最重要の神事の最中なので厳粛な空気を乱すことはできません。
今は「神宝奉遷」で東宝殿がメインの祭場になっていますが、こちらも格子の向こう側を神職が横切る姿だけが見える状態です。
参列者が見守る境内を除き、すべての明かりが落ちました。警蹕(けいひつ)が流れているのは、今、まさに遷座が行われている証拠です。
昭和43年発行の長野県教育委員会『諏訪信仰習俗』から、〔下社遷座祭次第〕の一部を紹介します。少し古いのですが「式次第と写真」はこの書にしかありません。
遷御 先ず祢宜御幣束、権宮司第二霊代、宮司第一霊代を奉裁、神社本庁献幣使これに前行し祭員前後陣に供奉して新殿に向かう
入御 是より先権祢宜壱新殿の御扉を開く、宮司・権宮司御霊代を御帳台に奉安し、祢宜御幣束をその前面に奉安す
写真では、両宝殿の前にゴザの通路が設置されて布単(白布)が敷かれています。「絹垣」は片側一枚だけですが、参観者をシャットアウトした瑞垣内では片側だけのガードで十分なのでしょう。御幣束・第二御霊代・第一御霊代を捧持する神職は覆面(おおいめん)を着けています。
再び点灯し、献饌以下、宮司一拝までの神事が粛々と行われました。ただし、「何かが行われている」としかわかりません。
「以上をもって平成22年庚寅(かのえとら)の年諏訪大社式年造営御柱大祭(みはしらたいさい)諏訪大社下社春宮宝殿遷座祭を終わります。皆さん長時間の参列ありがとうございました」の挨拶で時計を見ると、…9時半でした。
初めは6年に一回という神事に張り切っていました。しかし、徐々に目覚めてきた空腹に肌寒さが加わり、格子の向こうにチラチラと動く人影を見ているだけなので、生アクビが出始めると眠気を感じます。神事の進行や撮影ポイントがわかったので、次回は…。しかし、人生6年先のことはわかりません。
この間、宝殿の開扉・遷座・祝詞奏上時は、参列(見学)者も「お頭(かしら)をお下げ下さい」に従います。また、遷座時はカメラのフラッシュは禁じられます(警告がありましたが、2、3回光りました)。
遷座の行列は、御霊代の前後に「かげとう」が“付き”ます。ところが、図書館で分厚い辞書を何冊か見ましたが載っていません。暗闇では「つまずく」おそれがあります。そこで、どんな物かは全く想像できませんが「影・陰(になる・ならない)灯」ではないかと考えました。ネットで検索すると、「影灯」は空振りでしたが、「陰灯」ではトップに表示しました。「神具木工品」のサイトですから、「これだ」と確信しました。
陰灯の写真は、42cm×18cm角の縦長の木箱でした。早く言えば中にロウソクを立てる「明かり箱」で、前蓋だけに(目測で)約2cm幅の長いスリットがあります。今風のスポットライトですが、光源がロウソクなので「ほんのり」という明るさだと思われます。周囲(三方)には明かりが漏れないので、神事に用いるには最適の照明器具なのでしょう。
これで、魔除け(警備)の「日の御矛」―「陰灯」―「第一御霊代」―「第二御霊代」―「御幣束」―「陰灯」―「月の御矛」と、見えない“行列の構成”が理解できました。ただし、それぞれがどんな形をしているのかはわかりません。むしろ、具体的な形がわからない方が神秘的で尊い物のように思えます。
その後、「陰灯」を再検索する中で、「陰」ではなく「蔭灯」が正しいことを知りました。「蔭灯」では、PDF文書を含めた幾つかのサイトがヒットし、その写真も確認できました。
宝殿遷座祭の蔭灯 前出の『諏訪信仰習俗』の巻末に下社宝殿遷座祭の写真があり、その二枚に「蔭灯」が写っていました。神職の体を基準にすると大小の二種類があり、大きな物は、トップの写真にある提灯の代わりに使われていました。
左は、「襷をした宮司 秋宮」とある写真の一部です。昭和43年の遷座祭には使われていたことがわかります。
宮地直一著『諏訪史第二巻後編』〔下社の遷宮〕の項に「有明之蝋燭」が出てきました。「陰灯」を調べた後だったので、「特別な蝋燭──有明之蝋燭」ではないか直感しました。
しかし、「有明の蝋燭」を検索しても「武田信玄が織田信長に贈った越後有明の蝋燭三千張」だけで、具体的な形はわかりませんでした。この検索で「有明行灯(あんどん)」を知り、また、乏しい脳内メモリーの領域が減ったような気がしました。また、どうでもよいことですが、蝋燭の単位を辞書で調べると「挺・丁・本」とあり「三千帳」が理解できました。