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「式年薙鎌打ち神事」小倉明神社 '09.8.31

 布団の中で目を覚まして聞いた雨音も朝方には止みました。雨さえ降らなければ上々と、小谷村の民宿から姫川に沿って糸魚川に向かいました。小倉明神社は、大宮諏訪神社からは山一つ向こうですが、車道がないために新潟県側から根知川沿いに戻る格好になります。
 小倉明神社の麓は二ヶ月前とはうって変わり、雨対策と思われるテントが幾張も出現していました。黄色い「スタッフ」を羽織ったのは、今日は平日ですから、その年齢からみても村役場の職員でしょう。次々に到着する車の誘導に追われていました。早速、奏楽で笙を担当する知人と共に小倉明神社へ向かいました。
 雨でスリップを心配した山道(参道)は砕石が敷かれ、転落防止のロープも張られていました。拝殿の前で待機していると、後方からエンジン音が聞こえます。枝葉を透かして見下ろすと、何と大型バスが何台も上がってきます。「境内が狭いので関係者以外は神事の見学ができない」ことを知っていますが、これだけの人が集まっても大丈夫なのでしょうか。

猿田彦 木遣りが下方から聞こえてきました。時計を見ると9時55分です。しばらくして、猿田彦に扮した氏子を先頭に、薙鎌を納めた唐櫃・神職・氏子などの参列者が現れました。
小倉明神 櫃が拝殿内に置かれると、神職が昇壇して左右に詰めました。「優先権」がある地元の氏子と関係者及び諏訪から駆けつけた木遣り衆が並ぶと、狭い境内はほぼ一杯になりました。諏訪大社大総代の列も、半数は拝殿横で動きが止まりました。上写真では、中央から左へ、諏訪大社宮司・祢宜・大宮諏訪神社宮司です。祢宜は「下社担当(勤務)」なので、薙鎌打ち神事は、今でも諏訪大社下社から参向していることがわかります。

小倉明神拝殿 神木を含めた諸々の祓いが終わると「開扉の儀」で、警蹕が流れる中で本殿の扉が開かれました。祢宜が櫃から三方に載せた薙鎌を取り出し諏訪大社宮司へ、さらに大宮諏訪神社宮司の手で本殿の前に安置されました。
 祝詞奏上が終わると、大宮諏訪神社宮司が「薙鎌」を捧持して神木前に設えた祭場に上がり、宮司と、「木槌」を捧持した祢宜が続きます。拝殿内を注視していたので、いつの間にか祭場が霧に包まれていることに気が付きました。幻想的な神事となりましたが、写真を撮るには辛い暗さでしょうか。

小倉明神、薙鎌打ち神事 木遣りが鳴く中で、諏訪大社宮司が薙鎌を打ち込みました。「御柱の見立て」と違い「よいさ」の掛け声はなく、厳かながらもあっけなく終わりました。私の位置からは真後ろなので、薙鎌がよく見えません。拝殿横で足止めされた大総代の半数は、神事を参観できなかった代わりに、薙鎌打ちをベストの真横から見ることができたようです。
 神職が拝殿前に戻ったので、後は終了の神事のみと思いました。ところが、「大祓」の声で前を注目すると、神木に向かって神職全員が「大祓祝詞」を唱和し始めました。覚えたいと思いつつも、いつも聞くばかりですが、「彼方(おちかた)の繁木(しげき)が本を 焼鎌の敏鎌(とがま)(も)ちて 打ち掃(はら)う事の如く」は、難解な中にもしっかり聞こえました。

薙鎌打ち神事「木遣り」 玉串奉奠です。神職の後は、小谷村村長を始め氏子が次々と玉串を献げました。最後の玉串奉奠は櫃を担いだ氏子二人でしたが、名前の読み上げで、その一人が「和田さん」と気が付きました。
 和田さんは神社の下にある一軒だけ残った家の直系です。中股の「草分け」である先祖がこの小倉明神を造営したので、社殿・敷地とも彼が“所有者”ということになります。聞くところによると、大工でもある和田さんが、参道の整備や報道用のやぐらを造ったそうです。その彼の母が、二ヶ月前、私を小倉明神まで案内してくれたおばあさんとわかりました。
 撤饌が終わると、再び警蹕が流れ本殿の御扉が閉じられました。宮司に合わせて全員が一拝し、平成21年の「薙鎌打ち神事」の全てが終わりました。

打ち込まれた薙鎌 帰り際に薙鎌の写真を撮りました。フラッシュを使いましたが、霧が掛かっているので鮮明には撮れませんでした。反対側が順光でベストですが、崖とあっては空中浮揚しない限り不可能です。
 小倉明神でこの神事が見られるのは12年先です。私には、これが最後の薙鎌打ち神事となるでしょうか。