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青塚古墳と青塚社 諏訪大社秋宮 17.8.7

 諏訪大社下社の秋宮から春宮まで歩いてみよう、と思い立ちました。ネット地図を開いて秋宮から旧中仙道沿いを目で追うと、何と、秋宮の一部とも言えそうな位置に「青塚古墳」の文字があります。実は、「青塚古墳は、諏訪で唯一の前方後円墳」と知識はあっても、どこにあるのか知りませんでした。

青塚古墳

青塚古墳(側面)
後円部側面から前方部の眺め

 地図上であっても青塚古墳がある場所を知っていますから、近づくまでもなく、屋根の上に見通せる大きな緑塊がその古墳と分かりました。
 墳丘を一周すると、長い年月の間に宅地などで圧迫され続け、ほぼ長方形になっています。「県史跡」とある長野県教育委員会が設置した案内板には、「7m余ある横穴式石室をもつこの青塚古墳は、主軸長67m・前方部幅43m・後円部径34m・高さは何れも8m」とあります。畿内の超大型古墳に比べれば子供だましのようなものですが、後円部の墳頂に立ってカメラを向けると、ワイド側一杯でも前方部を収め切ることができませんでした。

青塚古墳
前方部から後円部を撮る

 この古墳の所有者は諏訪大社になっていました。付近には、「王」が「青」に転じたという青塚の他に大型古墳はありません。そのため、このサイトとすれば、極近の秋宮との結びつきに飛びつくのは自然の流れです。6世紀後半から末という築造時期に、中央(畿内)から派遣され、後に下諏訪神社の大祝に就く「金刺氏」祖先の墓と断定してみました…。

古書に見る青塚古墳

 幕末の書物である、勝田九一郎正履著『洲羽かのこ』から転載しました。原文の表現を損ねない程度に、現代かな漢字に直してあります。

王墳の事
 今、下諏訪立町の裏田畝に土人青塚と言う古墳あり。上には樌(欅?)の類生い茂り、恰(あたか)も小山の如く見ゆる也。心ある人ありて古墳と思う人もあり。然れども、定かに考えし人もなし。
 近頃上州辺の歌よみ来り、是ぞ正しく大明神(※建御名方命)の陵墓ならんと言いしより、社人も一同して此地所町人の持地にて有しを十五金(両?)出し購(あがな)いしと言う。予、去りし年、下の諏訪に至り此事を言出し人ありて論弁せしより、あえて我大明神の陵墓と言うは止みぬ。
 昔、金刺親王わが国に下り給いしが、其子孫の王此地に止りし給い君の陵墓ならんか。されど其封域(ほういき)のさま親王の葬式と思わる。臣下の墓と思われず。されは親王の墳墓にや。いづれ、いにしへ(古)よりおうづか(王塚)と言いしを誤りてあおづか(青塚)呼びなしけんにや。おう・あお俗訓近きより訛(なま)れるならん。
 下の宮(※下社)大祝は先に言える如く金刺姓也。もしくは其親王の御子孫ならん。されば大祝家盛(さかん)なりしうちは祭祀もおこたらず、祖先の墳としてかしづきしことにぞあらん。然るに大祝家滅亡して後は誰伝える人もなく、今は社司の輩に至りて上に言える如く弁(わきま)えざる事に成りし、嘆きても余りあり。
 今年丁巳初夏、穢れし事(※石室に変死者があった)ありとて土をうがち取捨つるとて、土中より埴人形四尺余りなる形は甲胃を帯(おび)せしようなるを堀出しけるに、心ある人なくて、その図も写さずして又土中に埋めしと言う。王墳なる事著(いちじる)し。此大祝家は大家にて勢ありしが武田氏に滅ぼされしや。又其已前(いぜん)国族に滅ぼされしにや未詳。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第四巻』

 ここに、甲冑をつけた武人の埴輪が出土したことが書かれています。

青塚古墳と青塚社

青塚社
古墳くびれ部にある「青塚社」

 青塚古墳の前方部と後円部の間に、塚の名前をとった「青塚社」があります。諏訪大社下社の摂社ですが、学術的には被葬者が不明なので、“馬の骨”を祀っているとも言えそうです。
 天皇陵に比定されている畿内の超大型古墳は、宮内庁が管理し鳥居が立っています。一方、青塚は、諏訪最大であっても「陵」に比べれば超小型になってしまいますが、そこは諏訪の地にある特権で、天皇陵には無い御柱が建てられています(と、持ち上げてみましたが…)。
 小宮一覧表によると、祭神名欄は空白で、崇敬者・氏子は(下諏訪町の)「立町」になっていました。

日本最古の大塚大明神位碑

 青塚社入口に、(大塚大明神では)“日本最古”という「大塚大明神位」の石碑があります。上写真では、中央の石段右にあるのがその石碑です。別ページで紹介していますからご覧になって下さい。

‖サイト内リンク‖ 日本最古の「大塚大明神位碑」