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『国幣中社諏訪神社下社繪圖』 25.10.17

 県立歴史館蔵『国幣中社諏訪神社下社絵図』を、「信州デジくら」から転載しました。縦が65cmという大判ですが、折り目(5×3)があるので、たたんで携行したことがわかります。

国幣中社諏訪神社下社繪圖

 「似たようなものがあった」と、宮坂清通・増沢光男・竹淵甲子男・信州・市民新聞グループ編集局『おんばしら 諏訪大社御柱祭のすべて』を開いてみました。記憶にある通り、「…立川和四郎富昌が描いた江戸末期の下社絵図。幕末の秋宮周辺の様子がよく分かる」と説明がある、同じ『国幣中社諏訪神社下社絵図』の右半分でした。

「立川和四郎富昌図」 「立川和四郎富昌は絵も描いたのか」と眺めれば、左側面に「信濃國諏方 立川和四郎富昌圖・飛騨國高山 土川秀渓彫刻」とあります。寺社の造営やその彫刻には設計図が必要ですから、彼にとっては(依頼があれば)絵図を描くことなど造作ないことでしょう。
 ここで、「チョッと待てよ」と一つの疑問が…。絵図名に「国幣中社」とあるからです。立川和四郎富昌の没年が安政3年(1856)で、諏訪神社が国幣中社に昇格したのが明治29年(1896)ですから、少なく見積もっても40年の開きがあります。

 ここで、持ち前の“突っつき”が頭をもたげてきました。ところが、私には無名の「土川秀渓」を調べると「立川和四郎富昌とほぼ同時代の人」とわかっただけですから、それ以上の進展は望めないことになりました。しかし、ここで幕引きすることはできません。過去に蓄積した知識を総動員し、絵図の内容を検証することにしました。

 諏方神社の絵図で幕末と明治初頭の違いがわかるのが、神宮寺の存在です。『国幣中社諏訪神社下社絵図』には神宮寺が描かれていないので、廃仏毀釈で伽藍が破却された以降のものとなりました。

立川和四郎富昌「諏訪神社下社繪圖」 直接には関係ありませんが、千手堂があった部分に二つの池と祠が確認できます。この祠は神仏習合で千手堂の境内に造られた天神社と弁天社で、「天満」「キフネ」と並記してあります。同一境内であっても、「神仏分離」を忠実に実行したことを知りました。

 しかし、大きな視野で眺めると、春宮に慈雲寺が描かれていないことに気が付きました。さらに見回すと、神宮寺とは関係ない(破却されない)寺院も一切見当たりません。これらを総合的に判断すると、この絵図は神社に絞って描いたものということになりました。
 「他に何か手掛かりが」と拡大すると、作者名の下に「東堀村」と書いてあります。東堀村は明治7年に周辺の村と合併して「長地村」になりましたから、それ以前に描かれたものとなります。

 取り留めのないようなことを挙げてみましたが、結局は、立川和四郎富昌作の『諏訪神社下社絵図』を、明治中期の現状に合わせて出版したのが『国幣中社諏訪神社下社絵図』となりました。

『国幣中社諏訪神社下社繪圖』は、『諏訪神社下社繪圖』

削除された神宮寺 その後、名称と発刊年は不明ですが、神宮寺が描かれたまったく同じ絵図を目にしました。
 両図を付き合わせると、千手堂を削り取って田圃に改変したことがわかります。その境がマーキングした部分に残っていました。
 つまり、『国幣中社諏訪神社下社絵図』は、立川和四郎富昌が描き土川秀渓が彫った『諏訪神社下社絵図』から神宮寺関係の堂宇を削除したものでした。

立川和四郎富昌が描いた秋宮の神楽殿

立川和四郎富昌「秋宮神楽殿」 せっかくなので、立川和四郎富昌が造った秋宮の神楽殿を切り取ってみました。数ある古絵図の中でも、社寺建築者らしい正確な形状で描いてあるのがわかります。
 原本は、変色(セピア化)が進んでいるのはやむを得ませんが、刷りの状態がよくないのが惜しまれます。木目状の縞目が見えるので、版木がかなり摩滅していたのかもしれません。