年二回行われる下社の遷座祭について、幾つかの文献を読んでみました。
写真は平成23年2月1日に行われた遷座祭で、御神輿が神楽殿の中をスルーするお馴染みのシーンです。金襴で覆われているので、直方体の箱としかわかりません。
よく見なくてもわかってしまいますが、神楽殿は現在修復中なので、工事用のシートに印刷された実物大の神楽殿から出てくる写真となりました。新聞記事を読んで「そんなチャチなことをしなくても」と思っていましたが、“実物”の予想外の出来映えに感心して紹介することにしました。
今までは、「御霊代を乗せた神輿」にだけ目が行っていました。しかし、遷座の行列には、その他に「御正台(みしょうだい)」と呼ばれる二基の神輿があります。
出発時には、矛や薙鎌などと共に「御正台、(担当者は)誰それ」と紹介されますが、脇役とあって記憶に残るものではありませんでした。この御正台は上面がフルオープンの空箱なので、参道の住民からおひねりが投げ入れられます。
さらに、上社の御射山祭で使われるものと同型の御輿(おこし)も加わっています。
御輿は格子になっているので、中に、金襴に包まれた「御篋(御箱)」が見えます。遷座時はこの御篋をそのまま宝殿に安置します。
これらのすべてを一括して「遷座の行列」と片付けることもできますが、このサイトのこだわりから「関係する文献」を探してみました。
上社中心の『諏方大明神画詞』ですが、珍しく下社の遷座祭を詳しく書いてあります。
「長櫃」は、名前から想像できる形状と「一合」とある数から現在の「御霊代を乗せた神輿」と考えました。しかし、「注連を引く」とある添え書きからは、現在の御正台が該当します。『画詞』は写本なので、「二合」の写し間違いかもしれません。
こうなると、次の「第一」は(後述の)「第一御霊代」に相当します。しかし、“第一”から連想する重要さと大祝の直前という位置にもかかわらず、関係者ではなく「参詣者数人が担ぐ」というのが引っかかります。
中世の様子を現代の姿にそのまま当てはめることはできませんが、「長櫃−第一」と、現在の順番と同じことがわかります。
下諏訪町誌編纂委員会『下諏訪町誌』に、桃井祢宜太夫家所蔵とある安永七年(1778)の文書です。
神輿と御篋が「並び・に」という表現なので順番は確定できませんが、「幸魂の御輿−奇魂の御輿−神輿・神爾の御篋」となります。現在の「小御正台・大御正台・御神輿・御篋」に相当します。
ここに登場する「神爾」を「神璽(しんじ)」の略字(当て字)と考えて、遷座に関する文献を読み直してみました。
ここでは式年造営の遷座ですが、神璽は「朱印状」と考えてもよさそうです。
平成22年の「式年造営御柱大祭宝殿遷座祭」では、遷御の順番は「日の御矛−蔭灯−第一御霊代(宮司)−第二御霊代(権宮司)−御幣束(祢宜)−蔭灯−月の御矛」で行われました。ところが、長野県教育委員会『諏訪信仰習俗』の明治初年から昭和43年にかけての3回の記録では、「第一の神体」などと呼称の違いはありますが「御幣束−第二御霊代−第一御霊代」という逆の順番になっています。これについての解説が見当たらないので、かつては東・西の宝殿を「正殿・権殿」と呼んだことから、異なる式年遷座の“方向”「正殿→権殿・権殿→正殿」で順番を逆にすると考えてみました。
話がそれてしまいましたが、図録の写真から「棒状の“何か”とセットになった小さな包みが第一御霊代・篋体が第二御霊代」と確認できました。これで、現在の順番が「小御正台−大御正台−御篋(第二御霊代)−御神輿(第一御霊代)」となりました。
下諏訪町誌編纂委員会『下諏訪町誌』に、御正台と「内御玉戸社・外御玉戸社」の関係についての記述があるので、抜粋して紹介します。
「かつては御正台が根本」ということですが、これ以上のことはわかりません。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に収録された、日光輪王寺蔵『諏訪神社縁起上下巻』からの抜粋です。
同書の『大祝家文書』から、いずれも年月日不詳の「古記断簡」です。
大祝が『諏訪神社縁起上下巻』を参考にして書いたものと思われますが、春宮⇔秋宮の遷座と櫃状(直方体)の神輿を「仏教の目で見るとこうなる」ということでしょう。しかし、こじつけのようでもあり、よくは理解できません。
これらの文書を読んで、蓮如の『御文章』に書かれた「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身」が思い浮かびました。(気になる人は)熟読して下さい。