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出早雄小萩神社 岡谷市長地(おさち) 18.11.13

 車の定期点検に要する時間を使って、以前より気になっていた「出早」へ行く計画を立てました。「出」を「いず」と読む地名の出早(いずはや)には、出早雄小萩神社が鎮座しています。

 岡谷市を北に突っ切る(と思われる適当な)道を選びました。一瞬遠くに感じた尿意ですが、体温の上昇を予測して脱いだジャケットを再び羽織る頃になると、完全に意識するようになりました。「(ショッピングセンター)アピタはどこ」と尋ねられても、立ち止まることができません。「わかりません」と答えて尿道の筋肉を締め続けました。
 冷汗ものでたどり着いたスーパーは、なぜこんなに早くから満車、という疑問も何かのイベントとわかりました。心身共に緊張が緩んだ中、無料というカニ汁の振る舞いがあり、“出して頂く”という二重の喜びに浸りました。小さいながらも丸ごと一匹(杯)の姿に「今日は何かよいことが…」と期待しましたが、その後は何も起こらないままに国道142号バイパスの高架下を潜ると、出早雄小萩神社の杜が見えました。

出早雄小萩神社

 出早雄小萩神社の境内は、カタクリとモミジの名勝として知られています。すでに霜が何回か降りて紅葉の盛りは過ぎていましたが、神社探訪がメインなので燃え残りのモミジでも不満はありません。

出早雄小萩神社「拝殿」
神楽殿から出早雄小萩神社拝殿を見る

 現地で神楽殿・拝殿・本殿と続く社殿配置を知り、境内の「縁起」で出早雄神社と小萩神社が合併して出早雄小萩神社になったことを知りました。
 ウォーキングが散策ペースになると一気に体が冷え、もうすぐ昼時というのに背中に寒さを感じます。社殿を周回しながら撮った中で、真横から見た拝殿と覆屋の一枚を選びました。

出早雄小萩神社「本殿覆屋と拝殿」

 本殿の覆屋(写真左)の形に見覚えがあります。少し考えてから、諏訪大社上社の宝殿であることに気が付きました。蟇股と千木がほぼそのままで残っています。宝殿は式年造営で建て替えられますから、不要になった社殿を拝領して移築したのでしょう。上社に限らず下社の宝殿も、諏訪の各地で拝殿や覆屋として使われています。

出早雄小萩神社の神紋
左にある小萩神社本殿の蟇股

 案内板に「(合祀ではなく)合併の祭神二柱」とあるからには、本殿が二棟並んでいるはずです。覆屋の格子戸の奥に目を凝らしてみました。ところが、左側の一棟は確認できても、右半分は密閉したかのような板壁に囲われており、その中に本殿が存在しているのかさえもわかりません。兄弟神ですからオープンに仲良く並んでいてもおかしくないと思いますが、人間と同じように何かのしがらみがあるのでしょう。

出早雄小萩神社の紅葉
拝殿覆屋

 予報通りに陽が薄くなり、今見頃という“名残モミジ”もやや精彩を欠くようになりました。先ほどまで見えていた、唯一動きが見られたボランティアらしき落ち葉掃除の姿も消えています。まだ余裕のある膀胱ですが、同じ轍を踏んではと境内のトイレを借りました。
 出早雄小萩神社の鳥居を出ると、正面に甲斐駒ヶ岳が見えるのに気がつきました。また、岡谷の街並みの向こうに見える諏訪湖に向けた目線の角度から、改めて出早雄小萩神社が高台にあるのを実感しました。諏訪湖の釜口水門近くから歩いてきた私は、対面する山に一歩一歩近づいているのはわかっていましたが、これほどまでに高度が上がっていたことを改めて実感することになりました。

 諏訪湖周に点在する多くの古社と同じように、出早雄神社も、湖水からの距離は違っていても山を背にする立地でした。祭神は、諏訪大社祭神建御名方の次男「出速雄命(いずはやおのみこと)」ということになっていますが、それ以前に横河川上流に勢力を張っていた土着豪族の産土神だったと考えるのが妥当でしょう。

出早雄小萩神社の拝殿

 拝殿は、山川出版社刊『文化財の見方』の図解では、「入母屋造り正面に破風(はふ)が造られ、そこから伸びる縋(すがる)破風が唐破風」という凝った造りでした。その破風と縋唐破風の鬼板は五根の神紋「明神梶」です。しかし、自宅で確認した唐破風の破風板は「諏訪梶」でした。

図解「出早雄小萩神社」 「縋破風や神紋が」と、いかにも知った風に書いてみましたが、これを見てもらった方が直感で分かるという「図解写真」を作ってみました。なお、拝殿前の狛犬と賽銭箱は明神梶でした。


出早雄小萩神社の本殿

出早雄小萩神社の平面図 岡谷市教育委員会『おかや歴史の道 [資料編]』に、覆屋の平面図がありました。旧宝殿の内陣に当たる部分が2対3で仕切られ、本殿は位置・大きとも異なっているのがわかります。これで、出早雄神社の本殿が見えない理由がわかりました。

小萩神社旧跡地 長地横川 24.4.19

小萩神社旧蹟地

 小萩団地内にある小萩神社跡へ行ってみました。今は小公園となっている一画に、「神朝臣(あそみ)守矢真幸書」とある「小萩神社旧址」碑が建っていました。かつては木が鬱蒼(うっそう)と茂っていて昼なお暗かったそうですが、周囲を見渡してもその痕跡はまったく認められませんでした。
 裏に由来が彫られていますが、…読めません。『おかや歴史の道 [文化財めぐり]』から抜粋して紹介します。

 長地横川に小萩神社があった。嘉禎3年(1237)の『祝詞段』に小萩明神とあって古い社である。祭神は諏訪明神の第八子興萩命で、意岐萩命・児萩・古波岐などとも書かれている。(中略)
 西山田村の産土神として祀られるようになり、小萩祝が奉仕していた。(中略) 時代の変遷に伴って、このような古社も氏子の移動等により、昭和35年(1960)社の本殿を遷座して、横川出早雄神社に合祀した。(中略)
 この合祀のとき神楽殿は出早神社のものを取り壊し、その跡へ移転改築し、拝殿はそのままの形で成田公園の一角にある招魂社岡谷宮へ移築した。

 岡谷市図書館に『横川区誌』があります。出早雄神社と小萩神社合併の経緯や社殿の変遷を詳しく書いてありますから、カタクリやモミジはどうでもいいという方は参考にしてください。