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継子神を探せ 下諏訪町大門 27.11.18

かなり昔のことですが…

 下野国日光輪王寺蔵『諏訪神社縁起 上巻』に、〔四柱之大明神事〕があります。

一、四柱之大明神者大宮御子也、下宮ニハ継子也、上宮ニハ実子也、四柱之御事世間不定安穏(後略)

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第四巻』

 何とか読み下してみたものの、意味がついてきません。難解ということにして、「下社の四柱之大明神は継子」だけを記憶に留めました。

その後…

ままかみ 〔みたらしの石仏〕を書く中で、『諏訪藩主手元絵図』の〔下の原村〕に「ま々かみ」()を見つけました。「堂」は十王堂で、今の「明新館」のことですから、その西方で砥川沿いという場所です。
 「鳥居と祠」が描いてないので地名としましたが、ここは諏訪大社下社春宮の直近です。「ままかみ」から「継神」、さらに「下社は継子」に繋がる可能性を思いました。ここでは、諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』を載せました。


しばらくして…

ママコノ社
『信州デジ蔵』から転載

 県立歴史館蔵『国幣中社諏訪神社下社繪圖』を眺めると、下馬橋の近くに祠()があります。名称が不鮮明ですが、すでに「継子」が頭にあるので「マ々コノ社」と読めました。
 これで、明治中期には“継子神社”が存在していたことになります。しかし、その時代には神社の合併がありましたから、今でも現地に“健在”とは限りません。

平成27年11月11日

 「11月11日」が特別な日というわけではありませんが、すっかり忘れていた「継子」を思い出しました。機は熟したというより「冬が来る前に」とした方が正確でしょうか、紅葉狩りを兼ねて、現在は「下諏訪町大門」と表示される下馬橋周辺を探訪することにしました。
 いつもの習いでネット大明神にお伺いを立てると、…一件も表示してくれません。ここで、「ままこ・継子」神社は、全国的にも極めて希な神社と知りました。
 「何か面白くなってきたぞ」と意気が上がる中で「下諏訪町」を加えると、〔下諏訪町公共工事入札結果〕として「町道継子神道線」が現れました。これに力を得て「下諏訪町 継子神」で再検索すると、blog『まるごと博物館〜宝探し探検隊のページ〜』の〔下諏訪の講について〕に、[継子神]が表示しました。

継子神(ママコガミ)、開拓が得意な神様。下の原の南を開拓、「八桙(やぎ)」という名前が地名に残されている。

 なぜ「八桙」なのかが書いてありませんが、神社としては初めての記述になりました。

翌日

 手掛かりは「下馬橋と砥川の間・継子神道線」だけです。不足分は足に期待するとして、まず砥川沿いの道から始めました。しかし、縦(南北)道の三本は空振りに終わりました。その道中で何人かの地元民に尋ねましたが、糸口さえも与えてくれません。
 縦がダメなら横ということで、下馬橋から順に西向きの小路に入ると、黒塗りの冠木門がある旧家の敷地に、幅半間ほどの木祠を見つけました。ここに間違いないとしましたが、当主の口から「継子」を聞かなければ確定できません。しかし、押したチャイムに反応はありません。

 場所が特定できたので、下諏訪町役場へ向かいました。住民課で住宅地図を閲覧し、会えない時の連絡先として旧家の名前をメモしました。

継子神道 次は別棟の建設課です。「町道継子神道線」を尋ねると、台帳の一枚にあるのを見つけてくれました。指の先を見ると…。「◯◯線」からかなり長大な道路と信じていたので、たった「これだけ」に拍子が抜けました。逆に、一気にその範囲が狭まったことになりますが…。(写真は、許可を得て撮ったものです)
 これで、(名前が載せられないので)旧家・住宅地図・道路名とすべてが重なり、(仮称)継子社の存在は揺るぎないものになりました。また、「継子(−)神道(かみみち)」線は両端の字(あざな)を付けたのではなく、「継子神道(継子神への道)」線と理解できました。

 もしかして、と旧家へ戻ると、母屋の縁側が開いています。応対に出た当主に「継子」を切り出すと、即座に反応してくれました。確信が事実に替わったことに満足したのですが、話を交わすうちに、それが根底から覆(くつがえ)りました。何と、継子社はここではないと言います。
 「次の道を曲がって、川が…」と教えてもらってから、厚く礼を言って別れました。どんでん返しがありましたが、同じキーワードがわかり合える会話は楽しいものでした。
 川というより側溝沿いの小道に入ると、その先は袋小路でした。最奥にある家に問うと、「継子」には首を傾げましたが、「石の祠ならある」と案内してくれました。その家からさらに奥へ続く、民家の軒下や田畑の縁をそれこそグルグル回る後ろ姿に不安を覚え、「これは道ですか」と声を掛けると、「道じゃない」と答えます。長い年月で発生した、暗黙の了解で通ることができる地元民専用歩道と考えました。その果てに、赤い鳥居が現れました。

継子神

 しかし、「継子神道線」からかなり離れているという印象です。聞いていた「正一位稲荷大明神」と赤い鳥居が一致しますが、不安はぬぐえません。しかし、祠の裏に「吉澤氏」の文字を見て、やはり継子社であると安堵しました。「今は、吉澤姓の巻が祀っている」と言っていたからです。
 写真を撮ってから、「今日は濃い一日を過ごせた」と、意気揚々と引き揚げました。「帰りはあの道で」と教えられた、写真手前の小道が旧家が言っていた「川に沿って…」でした。

その翌朝(11月12日)

 昨夜、布団の中で、気になっていた御柱関係の文を見直すことを思いました。それを覚えていたので、朝一番に、冊子から切り離してストックしておいた『オール諏訪』を手にしました。その中に、原直正さんが寄稿した『御柱から八龍神への変身(下)』を見つけました。

現在の諏訪を代表する郷土史家。

 チェックすると、何と、最初の見出しに「継子神」の文字があります。読み進めると、絵図や史料を挙げて「継子神とは何か」を紹介しています。この内容なら一直線に継子社へ行くことができたことになりますが、「記憶になければ白紙と同じ」ではないかと開き直るしかありません。

 それより、私が信じ切っていた継子社はすでに移転していたことがわかりました。今思えば、旧家の話の端々にそれが窺えたのですが…。

今はその遺跡として「継子神」の字地が残っているが祠は無く、継子神は矢木町公民館の前庭に移されており、矢木神社として祀られている。祠の跡地には他の氏神が祀られている。
矢木神社
矢木神社(継子神社)

 実は、大々的に「継子社を見つけた」と書くつもりでしたから、意気込みが削がれました。それでも、気を取り直して「継子神を探せ」というタイトルに変更し、私の得意な「ここに至るまでの経緯」を書くことにしました。それが、初めての試み「時間軸に沿った見出し」です。
 ただ不思議なのは“昨日の今日”で、しかも何年も手にしていなかった資料ですから、原さんが私に恥を欠かせないようにしてくれたとしか思えません。もちろん、原さんがエスパーであるとは噂でも聞いていませんから、継子神が仲介したのではないかと(真剣に)考えてしまいました。

矢木神社

 実は、継子神を探す中で、たまたま矢木神社に寄っていました。結果的に、まず継子神に会ってから、その旧蹟地(神陵)にたどり着いたということになります。
 矢木神社の前にある「由緒」の全文です。

祭神は八杵命と申す、諏訪明神のお子神で特に信濃国の開拓に功績のあった十三柱のお一人である、北方にご神陵と伝える神跡があり、近年まで矢木九町といわれた大郷はご神威のほどをしのばせるものがある、

矢木神社 ここで疑問に思うのは、由緒に継子神が登場しないことです。公民館という公の場所ですから、負のイメージに配慮したとも考えてしまいます。実子に対しての継子(けいし)ですから、堂々と由緒ある神名を冠した継子神社とすべきです、と町外の私が言っても…。

吉沢巻同族神

 第一区区誌編さん委員会『郷土誌 下の原』〔近世の下の原〕から転載しました。[巻氏神と屋敷神]には、吉沢姓同族神は四軒で祀り、祭神は継子神・愛宕権現と書いています。また、

下の原の巻氏神の場合二つの特色がある。(中略) 二つは吉沢巻の祝神である。継子神は下社の祭神八坂刀売命の連子ともいわれ、現にこの地名が残っている。古墳のあととも思われる。

とあるので、現在も継子神を祀っていることになります。本当のところはどうなのでしょう。

継子神周辺の推移(戦後から現在とは大げさですが)

 (14年も前に)原さんに先行されて口惜しいので、「町道 西田甫道線」を加えました。「にしたんぼみち」が、この町道の特徴をよく表しています。

■ 現在は巻の祝神ですが、便宜上「継子社」としました。

 改めて道路図を見ると、継子社に鳥居の凡例があることに気が付きました。

継子神道 「石祠一棟の神社がなぜ載っている」疑問も、「独立した社地を持つ神社は小さくとも載せる(住宅の敷地内にある神社は載せない)」という地図作成の方針と考えることができます。

 それは推測として、継子社の脇を南北に通る紫の細線は、汐(せぎ※用水路)に沿った道とわかりました。

町道と汐
町道「西田甫道線」

 住宅密集地では暗渠に変わって人の目から消えましたが、一歩奥に入って、まだこのような小川が残っているのを知りました。しかし、同じ車でも自転車しか通れないこの畦道が、町道「西田甫道線」となっているのが不思議です。水路を管理するのに必要として“町のもの”にしたのでしょうか。

下諏訪町大門
国土交通省『国土画像情報』

 米軍が、昭和23年(1948)9月に撮った航空写真です。衛星写真とは比べものにならない低解像度ですが、当時(Made in USA)としては最高の機材を使って撮影したことは間違いありません。
 県道184号でもある春宮参道の両側には人家が密集していますが、砥川にかけてはまだ田圃が広がっていたことがわかります。

 なお、戦後の大門地区の推移がわかりますが、本文には直接の関連はありません。生来の凝り性から、つい載せてしまいました。
 最後になりましたが、『郷土誌下の原』の〔明治8年集落地図〕には、「ママコガミ」に「先年より松の木あり、御維新につき村にて伐る」とありました。