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御倉御射宮司社 岡谷市御倉町 29.12.24

 鎮座地「御倉町」の名をとって「御倉御射宮司社」と表記しました。以下に出る『諏訪藩主手元絵図』に貼ったラベル「御蔵」が、御倉町の語源です。

郷蔵(御蔵)

 御蔵は、旧村の中心地に今も存続しています。私の認識は「地区が代々引き継いできた文書などを収蔵した建物」という程度なので、これを機会に少し調べてみました。

郷倉 藩には年貢米を貯蔵する御蔵があり、東筋・西筋・下筋に分かれていたので、三手(みて)御蔵(町御蔵)といった。また、各村々にあるのを郷蔵といい、藩の所有であったが、平常の管理は村名主が行った。岡谷村の郷倉は御倉町(現湖北堂薬局付近)にあったが、(後略)
岡谷区誌編纂委員会『岡谷区誌』〔貢租と課役〕
「蔵・倉」が混在していますが、原文のママです。

三狐神と三孤神

三狐神 史・資料によって「狐と孤」の違いがありますが、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』の〔岡谷村〕では、二つの三狐神を書いています。
 左上の「三狐神」が標題の「御倉御射宮司社」で、下にあるのが、旧下浜村の「御社宮司神社」です。両社とも筆字の小文字なので、「みけつ」と読めばお稲荷さん・「さごじ」と読めばミシャグジに変身してしまう不思議な神社となっています。


 前出の『岡谷区誌』〔神社・仏閣・史跡・名勝〕から、[御射宮司社]を転載しました。

 区内御倉町に鎭座し、古くは三孤神(さごしん)または御社宮司社ともいわれていた。ご神体は猿田彦大神であり、一説には建御名方命・八坂刀売命ほか、御子神十三神を祭ったといわれる。
 古くから岡谷区の鎮守の一つで、昔は境内も広く十五社・小部沢社および天王森の津島社とともに、岡谷村の主要な神社であった。製糸業の繁栄につれ、製糸工場用地が広がり、次第に人家の間に押し狭められ規模が狭小となったといわれる。岡谷下町一帯の人達が中心となって、維持し崇敬してきた。古くは石宮であったが、のち板宮になった
 昭和四十三年国鉄塩嶺トンネル短絡線建設のため社地が買収され、また天竜川河川敷工事のため社殿を天竜川船着き場跡付近、さらに岡谷十五社境内に仮移転した。五十八年七月、両工事の完成とともに現在地(御倉町公園)に新築し遷座した。祭礼は毎年七月上旬休日に行われ「はげん祭」(半夏祭か)という。

御射宮司社 29.12.23

 県道下諏訪辰野線(14号)の天竜川沿いに、「御倉町公園」があります。洩矢神社への道中にあるので、その一画にある御射宮司社は何回か参拝したことがあります。
 『岡谷区誌』を借りたことで参拝記を書く時期が来たとしましたが、撮りためてあるはずの写真が見つかりません。不思議というより記憶違いの公算が大きいのですが、それでも「赤い鳥居に化かされた」とも思ってしまいます。そこで、天気が崩れる前の一日を選んで写真を撮りに出掛けました。

御射宮司神社

御射宮司社本殿 冬至が昨日という冬の陽ですが、覆屋の格子が輝いて中の祠がうまく撮れません。格子の間にカメラの鏡胴を差し込んで、何とかミシャグジの家を紹介することができました。
 安置された幣帛の紙垂はまだ白く、現在も祭祀がしっかり行われていることがわかります。
 ここで、『岡谷区誌』と境内にある『御射宮司社由来記』が「古くは石宮であったが、のち板宮になった」とある共通の記述に疑問を抱きました。「その後にまた石宮になった」ということになりますが、現況では、どう見ても「古くは板宮であったが、のち石宮になった」としか思えません。

御射宮司社と高速道路 境内というか、公園内だけを眺めていると忘れてしまいますが、天を仰げばこの景観です。
 中央自動車道西の宮線から長野自動車道と名を変えた空中道路が、頭上の脅威とも思える威圧感で空の青を区切っています。


旧鎮座地

御射宮司社

 天竜川を渡って、対岸から撮ってみました。左へ続くガード(高架橋)が、由緒にある「JR塩嶺トンネル短絡線(飯田線兼用)」です。

御社宮司社旧跡地 「社地が買収され」とあるので、国土交通省『国土画像情報』から、昭和55年の航空写真を用意しました。
 これに、昭和23年の写真と社地の裏に高架橋と思われる石垣が残っている現況から、旧鎮座地と現在の鎮座地を表示してみました。

『御射宮司社由来記』について

 境内の左奥に『御射宮司社由来記』がありますが、『岡谷区誌』と重複するので一部のみを転載しました。

 小社神号記には「往古御三孤神(みしゃぐじ)とも書けり、女神は保食(うけもちのかみ同体なり」と記されている、ご祭神は猿田彦大神であり、一説には建御名方(たてみなかたのみこと)ほか十三神の御子神を…
岡谷区御射宮司社氏子一同

 この碑文を書き写す中て、「女神」に「アレッ」と思いました。これを誤字と勘ぐられないように新たに用意したのが、碑の写真です。

御射宮司社本殿 改めて読めば、保食神を保食「社」と書き、建御名方に「命」が抜けています。しかし、石碑では、ここでツッコミを入れても修正することができません。現地で読んだ私も気が付かなかったので、この場を借りて大声を挙げるのは止めにしました。
 ここで前述(碑文)女神ですが、『小社神号記』を読んで、専女(とうめ)神の「専」が抜けていたことがわかりました。原文を過省略した撰文、または揮毫時のミスと思いますが、これもここに記すだけとしました。
 次に(しつこいですが)「三孤神」に「御」を付けて「みしゃぐじ」と読む(読ます)ことには抵抗があります。そもそも、『御射宮司社由来記』が引用している「往古御三狐神とも書(け)り、然れば爰(ここ)に記すことあり、専女神は保食神御同体なり」は、下浜の「三狐神(現御社宮司社)」についてのものです。
 前出の『岡谷区誌』は、(あくまで私見ですが)現在の社名「御射宮司社」にお稲荷さんを持ち出すのは誤解を招くとして、『小社神号記』を引用するのを避けているのとは対照的です。