平成19年。秋宮駐車場の葉を落として疎らなになった生け垣の向こうは、向陽高校へ向かう女子高生がひっきりなしです。もちろん男子もいますが、寒さで赤くも見える生足のほうについ目が行ってしまいます。あいにくの曇り空ですが、それがまぶしく映るのは、それだけ私が年を取ったということなのでしょうか。内御玉戸社の例祭は9時なので、暖房が効いた車内で目を閉じ、しばしの“覚醒した微睡(まどろ)み”を楽しみました。
パーカーを羽織って、早朝の秋宮境内に寄ってみました。播や鉾・薙鎌が神楽殿横に設置されています。幣拝殿脇にも大・小の「御正台」がおかれ、宝殿前には黒地に神紋が浮き出た金襴に覆われた神輿も用意されていました。午後1時から始まる春の遷座祭の準備は万端のようです。
内御玉戸社と外御玉戸社の例祭が、遷座祭に先立って行われる理由は何でしょう。この両社が鎮座する地はかつての下諏訪神社大祝・武居氏の館跡の一部だそうですから、何かの“因縁”があると思われます。しかし、私にはそれ以上のことは分かりません。
8時半過ぎ、道順で現れる外御玉戸社は普段通りで、これから神事が行われるような気配は全くありません。かなりの上り坂なので「その上」と言う表現になる内御玉戸社は、白い上下の作業衣姿の神職が準備中でした。氏子も数人、ドラム缶を半切りにした“野外ストーブ”周辺で待機しています。部外者なのでその仲間に加わることもできず、遠目で、煙の下に確実にある赤い炎を睨むばかりです。吹きさらしに耐えかねて、内御玉戸社の周辺を歩き廻ることにしました。
今朝の予報では春の陽気を伝えていました。「諏訪ではとてもとても」という寒さですが、車載の“絶対温度”計は0度を表示しています。−5度以下に冷え込んでいる毎日を思えばありがたい+5度も、風があるので体感では変わりありません。桃井禰宜太夫墓所や恵比寿社などで時間をつぶしました。
宮坂光昭著『諏訪神社下社祭政体の研究(一)』から、〔諏訪神社下社の古記類より〕の一部を転載しました。
ここに載る「幸魂社・奇魂社」が「内御玉戸社・外御玉戸社」とされています。
神事は各地によくある○○時間と違い、幾らか早めに行われます。それは承知していましたが、5分前であっても、カメラを急いでケースから取り出すという慌ただしさでした。
「献饌」といってもすでに案(机)にセットしてありますから、瓶子のフタを取るだけです。諏訪大社の神職に続き、ここ武居区の区長と町内会長の正副が代表して玉串奉奠をしました。実は、最背後にいた私は、前に居並ぶ役員に釣られて手を打ってしまいました。順番では、神職の奉奠時ではなく、最後の氏子代表に合わせて二礼二拍手一礼をするのですが…。
引き続き外御玉戸社へ向かいます。氏子が手分けして運んだ果物や野菜の神饌はそのまま、言うなれば内御玉戸社のお下がりが外御玉戸社でも使われました。予算の関係か、「尾頭付」は山盛りの子女子(こうなご)でした。御酒・塩・米だけは別に用意したものでした。
9時15分。内御玉戸社での氏子拝礼に統一性がなかったのでしょう。「最後の氏子代表に合わせて」と神官から説明(注意)がありました。神事の流れは内御玉戸社と全く同じです。
しばらく前から気になっていた尿意が深刻になってきました。駐車場のトイレで済ませてきたのですが、寒さというより年のせいでしょう。往復でも5分の距離ですから、余裕のある内に決着をつけることにしました。
手のかじかみと今日のための重ね着に、縮んだモノを強制的に出し入れするのに手間取りました。神事の最中では忌むべき行為ですが、こればかりはどうにもなりません。手を洗う間も惜しんで戻ると、まだ玉串奉奠が続いていました。
この後、と言っても午後一時からですが、春の遷座祭が行われます。
今日行われた内・外御玉戸社祭は、その内容から地元武居区の例祭で、諏訪大社の祭りではないことに気が付きました。改めて確認すると、『諏訪大社祭事表』の3月15日の覧に「内・外御玉戸社例祭」がありました。「祭と例祭」の違いですが、かつての下社「御室明け」に当たる日なので、こちらの方が諏訪大社が祭主となる御玉戸社の祭りとなるのでしょう。