諏訪大社と諏訪神社トップ / 下社散歩道メニュー /

旧御射山社(霧ケ峯本御射山神社) 諏訪市四賀霧ヶ峰 17.6.18

長野県神社庁では「霧ケ峯本御射山神社」と表記しています。すでに諏訪大社の手を離れているので“神社”ということになりますが、このサイトでは、諏訪大社の旧摂社という関係から(便宜上)「旧御射山社」を用いています。

旧御射山神社
「旧御射山社」19.6.30

 広大な凹地の底では不安を感じるのか、やや退いたかのような斜面に旧御射山社がありました。決して低くはないのですが、この広大な草原の中にあっては灌木になってしまう一群の木々が、まるで将棋の駒のように周囲をガードしています。
 諏訪大社では、御射山社には御柱を建てません。しかし、写真のように御柱が…。これは、江戸時代に諸般の事情で御射山社が里に下りてしまったことにあります。現在は、建御名方命を祀る「霧ヶ峰本御射山神社」として上桑原牧野組合が管理しています。そのためでしょう。「やはり御柱がなくては淋しい」ということになってしまいました。余談ですが、諏訪人はとにかく「御柱」が好きで、市役所や警察署・病院・お寺なども祠があれば御柱を建ててしまいます。

中世の記録では、上社の御射山社には御柱を建てています。

 「御柱」はさておき、「下社の旧御射山社を紹介するからには自分の目で」ということで、レンゲツツジが見頃という草原の中に一人立ちました。所々切れている記憶の糸を修復しながらたぐると、初めて訪れたときは、競技場跡のシンボルともいえる「土壇」だけに目を向けていました。旧御射山社の存在には全く興味がなかったからです。そのため、目の前の旧御射山社は“初見”ということになります。

旧御射山神社の桟敷跡
「旧御射山社と桟敷跡」19.6.30

 さて、霧ヶ峰まで来て、『旧御射山社の写真』だけを撮って「ハイさようなら」はかなり贅沢な休日の過ごし方と言えそうです。これも、思い立ったらいつでも、という地元の特権でしょうか。それでも、このまま帰るのも何だと桟敷(土壇)の最上部まで登ることにしました。
 (上写真右上の)“森林限界”に沿って登ると、食べ頃のワラビが…。しかし、ここは牧野組合の「私有地」なので山菜類の採取は禁じられています。最上部の桟敷跡から見下ろすと、下からはそれなりに見えた段(壇)の形状が明確ではありません。代わって大型シダ類の帯が縞目に広がっています。その植生の境目が壇を縁取っているように見えました。

旧御射山神社を望む
「土壇(桟敷跡)の頂部から旧御射山社を見下ろす」17.6.18

 遠国から遥々来た武人達が神事を見守る姿を思い浮かべようとしました。しかし、草深く広がる「強者(兵)どもが夢の跡」は余りにも大自然そのもので、改めて霧ヶ峰高原の一画に自分が立っているのを認識できただけでした。蟻のような単独縦走者が、旧御射山社の横を立ち止まることも仰ぎ見ることもなく横切っています。その姿が視界から消えたのを確認してから、レンゲツツジの群落の間を縫うようにして戻りました。

廃絶した御射山(御狩)神事と、今も残る土壇跡

 諏訪市史編纂委員会『諏訪市史上巻』〔古代の集落と生活〕から、「霧ヶ峰御射山遺跡の発掘」の一部を転載しました。

 霧ヶ峰高原の北方にある本遺跡は八島高原の南に位置する。旧石器時代の八島遺跡を含み、西に開いた三方に階段状サジキをもつ約一万平方メートルの遺跡であり、その中央に御射山社の祠と湧水がある。この祭場は約三〇〇平方メートルの広さである。江戸時代初期に新しく御射山社を下方の武居入(たけいいり)地籍に作ったので「旧御射山(もとみさやま)」と呼ばれるようになり、ここでの神事、祭事は行われなくなった。
(中略)
 発掘調査は昭和三十四年から三回行われた。それによれば階段状遺構は人工によるもので、斜面に貼石をし上部を平坦にしている。平坦部に柱穴址を発見し、これは穂屋(祭事中宿泊参籠用仮小屋)を作った跡と考えられる。また段の高さは約二メートルほどで、この面からは生活用品である鉄鎌・砥石・鉄釘・灰釉陶器・備前焼・常滑焼・青磁・摺鉢・内耳土器などが発見されている。

 戦国時代の混乱で諏訪神社の祭祀が衰退したために、里から遠く離れた地で行う神事の維持が困難になったのでしょう。
 次に、下諏訪町誌編纂委員会『下諏訪町誌』から〔下社の祭祀〕の一部を抜粋しました。

 永禄年中までは下諏方の本社より凡そ五里程乾(いぬい)の方高山に有り、是本の御射山也、此所に於いて穂屋の祭礼有り(中略) 今小屋跡これ有り、
『桃井禰宜太夫書留』

 ここに出る「永禄年中」から、1570年以前までは御射山祭が行われていたことになります。
 以上、新旧の文献を、二例だけですが挙げてみました。この中で、私が今迄に書いてきた「桟敷」が、所謂(いわゆる)「さじき」とは違うものであることに気が付きました。どうも観覧用に造られたものではなさそうです。

下諏方旧御射山圖 左は、井出道貞が天保5年にまとめた『信濃奇勝録』にある「下諏方舊御射山圖武居祝家蔵本写」の一部です。鳥居が二基あり、中ほどには「神殿假屋(ごうどのかりや)」と書いてあります。
 この絵図には、各所に「◯◯桟鋪(さじき)」と書いてあります。この表記が今で言う「桟敷(観覧席)」と混同され、私を含む一般に「霧ヶ峰の御射山に大競技場があった」と広まった可能性があります。
 ただし、この絵図の名称は「“旧”御射山図」です。御射山社が武居入に移った後に描かれたことになりますから、信憑性は余りないかもしれません。

旧御射山神社の航空写真 国土交通省『国土画像情報』から、昭和50年11月撮影の旧御射山社周辺の航空写真をお借りしました。
 下部のシワのように見えるのが「土壇(桟敷跡)」で、現在は、この場所だけに“発掘跡”が残っています。

 改めて旧御射山社がある凹地の地形を思い起こしてみると、平地はごく僅かです。そのため、ここで大がかりな“競技”をするのは不可能なことがわかります。
 再び『諏訪市史』の同項から抜粋したものを載せました。

 御射山祭が鎌倉時代以降盛大になるにつれ、参加人数の増加とともに穂屋を作る場所が拡大され、三方面の斜面に段状施設を拡大していったと考えられている。

 このように、斜面に残る段は、宿泊施設を作るために造成された平地の跡ですから、陸上競技場や野球場の観覧席を思い浮かべるのは間違いとわかります。

旧御射山神社の桟敷跡
「初秋の御射山社」21.9.27

 御射山では、“鎌倉幕府に忠誠を誓う会”が行われたと見るほうが現実的かもしれません。もちろん、身銭を切って遠路はるばる駆けつけましたから、その後の“懇親会”では、相嘗(あいなめ)に名を借りた飲み食いのドンチャン騒ぎがあったのは十分想像できます。

尾花ふく 穂屋のめぐりの一村に
しばし里ある 秋の御射山

 これは、『玉葉和歌集』に載っている、諏訪神社下社の大祝(おおほうり)金刺盛久が詠んだ歌です。御射山祭が行われたのは真夏の一時(いっとき)ですから、霧ヶ峰に棲むクマやシカは、突如として“御射山村”が出現したことに驚いたのは間違いないでしょう。
 “観覧席”が否定されたことで、改めて、当時の景観を想像してみると、昼間より夜の御射山が浮かびます。土壇に沿って(蚊除けの)かがり火の列が重なるのを…。


‖サイト内リンク‖ 諏訪大社下社「旧御射山社祭」