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「金刺舎人貞長 大朝臣姓下諏訪町青塚古墳 25.11.3

 ネットで、大正5年出版の信濃郷土誌研究会『信濃郷土史研究叢書 第一編を見つけました。国立国会図書館デジタル化資料の一つですが、巻頭を確認すると「信濃郷土史研究叢書 諏訪研究」で、巻末には「編纂兼発行者栗岩英治」とありました。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953441

 私にとっては信濃郷土誌研究会と栗岩英治さんは初見なので、どのような団体と人物なのかがわかりません。それは追々調べることにして、拾い読みをする中で〔三、神社の昇叙〕にある一文に目が留まりました。諏訪大社を研究している人には“旧知の事実”だと思いますが、…私には知識外のことでした。以下にその抜粋を転載しましたが、クセのある(読みにくい)文体なので、マーキングした部分を読むだけでもかまいません。

 而(しか)も尚且つ神威神光を発輝し得た所以(ゆえん)のものは、惟(おもう)うに必ずや他の強大なる理由があったに相違ない。而して右(※承和の昇叙)に就て唯(た)だ一つきり思い合わさるゝ史実がある。と云うのは神威神光の発現さるゝ廿六年間の末期に当りて、三代実録貞観五年九月五日の條、
信濃国諏訪郡人、右近衛将監正六位上、金刺舎人貞長に、姓「大朝臣」をたまう。並びに是神八井耳命(やいみみのみこと)の苗裔(びょうえい)也、
と云う記事を発見する。此貞長は諏訪の如き遠い僻陬(へきすう)に居りながら、右近衛将監(うこんえのしょうげん)の役名と正六位上の位を持て居る男であった。それが此度更に朝廷から、金刺舎人(かなさしのとねり)なんど(などと?)云う素性の知れない姓の代りに、皇別に属する堂々たる姓氏「おゝの朝臣」と云うをたまわった。「おゝ」の姓は、古事記神八并耳命子孫の條に「意富(おう)」と書いてあるものゝ夫(それ)である。
 兎に角地方の豪族であったに違いない。今の下諏訪町役場の背後に大なる瓢(ひさご)形古墳があって、俗に之を「あお塚」と云って居るが、察する所「おう塚」の間違で、或は貞長の墳であるかも知れぬ。而して彼の諏訪社の神体代理(諏訪社には神殿神体共になし)を大祝と云ったのも、実は大朝臣の祝と云う意味であったのだかも知れぬ。
青塚古墳
前方後円墳「青塚古墳の石室」

 ここに出る「おう塚」が、諏訪大社下社秋宮の近くにある「青塚」を指しているのか自信を持てません。その古墳は、どう譲歩しても「下諏訪町役場の背後」とは言えないからです。
 調べると、古墳と接している諏訪湖オルゴール博物館「奏鳴館」の敷地に旧役場があったことがわかりました。大正のことなので、知らなくても恥ずかしいことはありませんが…。

 以下は、江戸時代の『洲羽かのこ』に載る〔王墳の事〕の一部です。

いにしへ(古)よりおうづか(王塚)と言いしを誤りてあおづか(青塚)呼びなしけんにや。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 著者の勝田九一郎正履さんも「おう塚」説なので、これから進めようとしていることに弾みが付きます。

青塚は大朝臣(金刺)貞長の墓か

 朝廷から「大(おお)」の姓を賜った金刺貞長の墓が青塚であるという話に注目したのは、大塚(青塚)が「大氏の塚」とリンクするからです。さっそくに調べると、貞観5年は863年でした。長野県教育委員会が設置した案内板では「古墳の築造年代は6世紀後半から末」としていますから、双方の年代は余りにもかけ離れていることがわかります。これで、あっけなくも「大朝臣貞長の墓が青塚」説は消えてしまいました。

「大塚大明神位」碑

 私は、諏訪湖北岸に勢力を張った「王」とも言える被葬者を、8世紀後半になってから顕彰した碑が「大塚大明神位」と考えています。ただし、石碑の改ざんは“いつでもできる”ので、「万治の石仏」同様、銘文のみで時代を確定することはできません。

最下段の「日本“最古”…」を参照

青塚社の灯籠

青塚社(古墳)にある灯籠 左は、古墳のくびれ部にある青塚社の灯籠です。高島三代藩主「従五位下諏訪因幡守・源忠晴」が奉献したものですから、少なくとも江戸時代初期から藩主家が青塚社を特別な存在として崇めていたことが想像できます。
 この灯籠は、下社の春宮・秋宮(共に宝殿の前)と上社本宮にある灯籠と同型・同時代のものです。それが青塚社にあるということは、何らかの謂われ──例えば「下社の始祖の墓」と伝えられていたのを藩主が認識していたことに他なりません。
 ここで“改行しました”が、後に続くモノが出てきません。再び、大塚大明神位碑に彫られた「宝亀四年」の真贋を問えないまま立ち往生してしまいました。

「金刺舎人貞長」再び

 下社の古い文献とは“疎遠”になっていることもあり、「金刺」が出ると(私が持てる知識では)もうお手上げです。そのため、『下諏訪町誌 上巻』から〔上代の下諏訪〕の一部を転載しました。伊藤富雄さんの文ですが、貞長や時代背景がよくわかります。

…貞長は清和天皇に仕え、右近衛将監であった。この右近衛将監は貞観時代のことであるから、後世の官途(かんず)ではなく、貞長は京都にいて実際に朝廷に仕えたのである。而して諏訪郡の人とあるから、その本貫(本籍)が諏訪郡であったことは明瞭で、諏訪下宮金刺氏の一族たることに疑いはない。貞長が朝臣姓を賜ったのは栄誉というべきであろう。そしてその大(おほ)を称するは、同人が神武天皇の子神八井耳命の後裔だったからである。…諏訪の金刺氏の内には、平安前頃もなお天皇親衛の官に任じて、在京する者ありしを示すものである。欽明天皇から清和天皇迄は、約三百年を経過しているが、その間金刺氏は、引き続き天皇の側近にも仕えたものと思われる。この金刺舎人貞長はその一人であろう。…

‖サイト内リンク‖ 日本“最古”の「大塚大明神位碑」