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武居稲荷社 下諏訪町武居 30.1.21

新聞記事の著作権

 2008年ですから、丁度10年前のことになります。諏訪大社下社の遷座祭に先駆けて行われる、内・外御玉戸社祭を見学しました。その時に、神事開始までの防寒対策として内御玉戸社の周辺を歩き、偶然に見つけたのが武居稲荷社でした。
 その存在は、前年(平成19年)の新聞記事で知っていました。さっそく、切り抜いておいた新聞記事を併記し、『武居稲荷社』として〔諏訪大社下社散歩道〕にアップしました。

 その後、記事をテキスト化する時に危惧していた「新聞記事の著作権」について調べました。幾つかある中で、『毎日新聞』〔著作権について〕の一部を転載しました。

https://mainichi.jp/info/etc/copyright.html

※「私的使用のための複製」
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 新聞社が、私を「著作権侵害」と訴えることは(まず)ないと思いますが、複製(転載)が許される「引用の範囲」がよくわかっていないこともあって、結局は削除しました。

武居稲荷社 その時に掲載していた写真です。まだ一周年を迎えていませんから、朝日に輝いています。
 境内はフェンスと板垣に囲まれているので、祠の造りがわかる正面を撮るのは無理でした。


武居稲荷社再拝 30.1.20

 久しぶりにスクラップブックを開いたら、前述の切り抜きがまだ残っていました。後十日で「武居稲荷社発見十周年」ですから、「このサイトで紹介しろ」というお稲荷さんの御告げに違いないと考えました。

武居稲荷社 現在の状況を確認するために再訪しました。御柱は、(期待した通り)しっかり建っていました。
 何枚か撮った中の一枚が10年前のアングルと同じだったので、サイズを揃えてみました。覆屋の右脇にある苗木が枝を広げているのが、10年の歳月を物語っていました。

 この場所しかないという内御玉戸社の横から正面を撮りました。冬の畑といっても私有地ですから、望遠で撮ってから素早く離れました。

武居稲荷社 暗い覆屋内とあって祠の形状がわかりません。画像ソフトで強制的に明るくしたのが、この写真です。
 新聞記事では「諏訪史蹟要項下諏訪篇などによると、ほこらは二百五十年ほど前の江戸彫刻の流れをくむ手の込んだ造りで、その手法は諏訪大社下社春宮下馬の橋とその軌を一(いつ)にしているという。こけら葺きで用材はケヤキ。幅と高さ1.2m、奥行き1.6m。」と結んでいる部分を転載しました。
 後で気が付いたのですが、社殿に近づけないこともあって、拝礼を怠っていました

 武居稲荷社の横を通る道路は、私道の可能性があります。立ち入らない方が無難かも知れません。

武居祝家の子孫ら 稲荷社の覆屋新調

 平成19年4月4日『長野日報』の記事を、引用の範囲を超えないように転載しました。

(前文略)
 覆い屋を新調したのは下社最後の大祝今井麻須美氏のひ孫にあたる山上禎子さん(七六)=東京都目黒区=と、禰宜太夫(ねぎだゆう)を務めた桃井(もものい)保之氏の孫で、県文化財保護協会会員の千野敦子さん(七〇)=岡谷市若宮=の家族。
 武居祝家にまつわるもので辺り一帯に現存するのは、稲荷社と樹齢約三百年の町文化財「武居桜」近くなど三ヵ所の墓地だけ。山上さんは二十年ほど前、自分のルーツを探そうと町を訪れ、初めて同社の存在を知ったが、地元では「暴れいなり」などと恐れられていたことに心を痛めた。当時から「自分たちの手で守り続けていかなければ」との思いがあったという。
 地元郷土誌によると、武居祝の系統は、下社大祝金刺氏の滅亡後、江戸時代には同族の今井氏が武居祝を称したが、このころの下社は大祝を置かず、武居祝の童男を大祝とした。大政奉還で神社は国のものになり、麻須美氏も一八七一年(明治四年)を最後に東京へ退転。恵比須神社など武居の神々はそれぞれ守り手が集ったが、稲荷社だけは取り残された。
(後略)

 (後略)とした覆屋再建の経緯が面白いので、“しばらく様子を見て”から加筆することにしました。

 恵比須神社の他、御室社は秋宮の八幡社に合祀されました。稲荷社だけが残ったのは、「武居祝の屋敷神(氏神?)という究めてパーソナルな神だったので、祭祀を継続する引き受け手がいなかったのでは」と考えてみました。