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春宮の大灯籠 18.10.13

 「春宮の大灯籠」と聞いたか読んだ記憶があるので、見当を付けた場所に向かって「春宮の大鳥居」を後にしました。ところがすでに春宮大門の下です。その手前が「見当」の場所だったので、「大鳥居」の亜流を「大灯籠」として自分で作(創)ってしまったのかと悩みました。それでも、と国道を突っ切り、この先のガードを潜ると下諏訪町の役場という地点まで足を延ばしました。やっぱり“大創作”だったのか、と踵を返すと道向こうに灯籠が…。案内板を読んで分かった、整備されたという松の陰に隠れていたのが原因でした。

春宮の大灯籠

春宮の大灯籠 すっきりした背景を、と移動したり身を屈伸させるのですが、三方を塀や植栽に邪魔され、春宮の大灯籠の全容が見えるるのはこの位置しかありません。少しでも広角歪みをなくそうと、道向かいの店に背を付けるように撮ってみました。巨大な笠を下から仰いだときは、“頭上の脅威”とも言えそうな危うさを感じましたが、ここからは下の基礎(台座)を含めた姿を見ることになるためその不安定さは全くありません。
 整備された一画に「石燈籠整備の記」という石碑がありました。それには「諏訪大社春宮矢木先門の是の石燈籠は今を去る文政十二年巨匠山田金衛門の名作にしてその由緒上又雄渾なる形状からも當地方稀有の存在にして當大社の文化財の一なり(以下略)」とあります。

春宮の大灯籠  灯籠の図解では「中台」とある“部品”にコブのようなものが付いています。目を凝らすと小さな獅子です。初めて見たこともあって、これは何かの間違い、と大きな違和感を感じました。石質が違うので、(日本一とか言う)ランク入りを狙って高さをかさ上げしたのでしょうか。巨匠とある彼の技とは思えませんから、後世に取り付けられたのでしょうか。屋根下の木組で、動物を彫刻した木鼻を真似たとも思えますが…。

 後日、図書館でこの灯籠について調べました。ところが、必要とする高さを始めその詳細が見つかりません。わずかな記述の中にあったのが、『整備の記』を読んだときに?だった「金衛門」が「金右衛門」で、金右衛門ではなく彼の長男平蔵が造ったとある文でした。一体どちらが正しいのでしょうか。その山田金右衛門は慈雲寺の「龍の口」を作ったことでも知られているそうです。ところで、石工で苗字が許されたということは、それだけ彼の技が高く評価されたのでしょう。あるいは、春宮周辺には「東山田」の地名が残っていますから、山田「の」金右衛門が「山田金右衛門」と呼ばれたとも考えられます。

 この灯籠には朱が入った「奉納・諏訪宮」と「信陽・一之宮」が彫られています。私が知る限り、「信陽」とある灯籠は春宮周辺に限られます。検索すると、中国の信陽やそれに因んだ名産、または社名にしたサイトが列記されます。「信陽 諏訪大社」で再検索すると4件に絞り込まれました。その中で、長野郷土史研究会機関誌「長野」全総目次の中に、「信濃を信陽ということ…」がありました。あくまで「目次」としてだけですが、長野=信濃=信陽と納得しました。生まれも育ちも現住所も長野県ですが、これは知らなかった…。信陽銘の灯籠は、同一の奉納者+石工を意味しているのでしょうか。資料が少ないだけ余分なことを想像してしまいました。
 補足ですが、交通事情で現在位置に移転したとありますが、当初は何所にあったのか調べがついていません。付近の辻は旧中山道筋に当たりますから、道路の幅だけ移転したように思えます。電灯線が火袋に引き込まれていますから、夜の大灯籠も紹介したいと思っています(が)。

大灯籠の詳細

春宮大灯籠 後に調べた、名を控えるのを忘れてしまった本には「高さ4.5m、台石は4.5m四方で、形式から山田金右衛門一派、高遠石工の系統のものとみられ、技巧のすぐれた作である。発起人は上ノ諏訪および大阪の人。(中略)総工費五十両を要した」「同じ形式でやや小型のものが春宮鳥居の前に二基立っている。(略)これも山田金右衛門一派の作と認められ…」とありました。金右衛門一派とありますから、「長男が…」という記述も間違いではないようです。また、鳥居前の燈籠にも「信陽」の彫りがあるのもうなずけました。
 さらに、日付はありませんが古い写真が載っていました。それには例の「獅子飾り」がありません。古くから据え付けられたものにわざわざ挟み込むことはあり得ないので、解体引っ越し時に新たに付け加えられたのでしょう。私には、でき物のような異物にしか見えません。

 『下諏訪町・石造文化財(その二)』に、「火袋の下に、横川産のきなこ石で作った獅子頭が四隅に付けてあったが、いつの間にかなくなった。今は新しく作ったものが付けられている」ことを見つけました。しかし、私の常識では、やはりデザイン的に無理がある、と断言できます。
 同書には「なくなった」とありますが、チョット持ち上げて、は不可能ですから、壊されたと思われます。それも悪戯ではなく、私と同じ違和感を持つ者の仕業でしょう。さらに、「江戸時代は諏訪湖が近くで、灯台の役目を果たした」ともありました。