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八島ヶ原湿原の「日月星」 諏訪市四賀霧ヶ峰 25.9.18

 メニュー「諏訪大社上社の雑学」〔穂屋野の三光〕(←リンクしています)に目を通してから本稿を読んでください。

湿原信仰

 予備知識ということではありませんが、諏訪市史編纂委員会『諏訪市史 上巻』の「山の信仰・湖の信仰」から、関係する部分を抜粋しました。

 山奥の池沼の信仰に、奥霧ヶ峰の八島湿原を七島八島と呼称し、湿原祭祀のあったことが考えられる。初夏になると奥山の池にみられる、スゲ・ヨシ類の芽生えは、田植をした田に見える。神の作った田と信じて、水稲・水源の信仰が生まれたと考えられる。池端には国常立命が祀られ、のち虚空蔵信仰として御射山の祭場となった。上社御射山も同じ類型の信仰とみられる。

八島ヶ原湿原

 下に、昭和50年撮影の航空写真「八島ヶ原湿原」を載せました。最近、そのハート形にあやかって「恋人の聖地」として認定されたそうですが、ここでは「恋人」はお呼びでありません。

八島ヶ原湿原「恋人の聖地」

 湿原の縁に池が三ヶ所あり、左から「八島ヶ池−・鬼ヶ泉池−太陽・鎌ヶ池−」という話が伝わっています。「ハートに鬼の泉があり・鎌が刺さっている“恋人の聖地”」という話はさておいて、下部の旧御射山社(もとみさやましゃ)との位置関係に注目すると、「穂屋野の三光」に通じるものがあります。しかし、あくまで「日・月・星」は伝承なので、魅力的な話であっても、この関係を取り上げることは避けていました。


鬼ヶ泉池

 江戸時代の本である小岩高右衛門著『諏方かのこ』に、〔鬼が泉水〕があります。「諏訪に、このような美景の地があるのだろうか」と疑問を持っていましたが、この鬼ヶ泉池を書いたものだと知りました。

 人里よりは道の程はるかに、幾重かさなる峯をしのぎ、谷を攀(よじ)て分(わけ)のぼる。東の嶽(だけ)の奥に在て広大なる池也。よに類(たぐい)なくきよらかなり。水鳥群(むれ)て波より霞にとび、雲より水に入る。美景たとえんかたなし(※例えがたし)。神仙渓辺(けいへん)にうたい、天女も嶺上(れいじょう)に舞うべし。絶勝(ぜっしょう)の地也。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 ただし「池のくるみ」や「八島」を書いた〔真澂の池(真澄の池)〕からは漏れているので、小岩さんは現地へ行ったことはないと断定しました。


『下社御射山古図』

 宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』の巻末に「別図版」がまとめて載せてあります。『諏訪史』は昭和12年発行で「定價拾圓・特價八圓五十銭」という古い書物ですが、図版の掲載にはこだわりがあったらしく、高解像度で印刷されています。そのため、ルーペで拡大すると、ミミズのような字でも何とか読み取れる場合があります。
 その中の一枚に、『下社御射山古図』があります。各所に「○○桟敷」と書き込んでありますが、「三済山(旧御射山)」と書いてあるので、江戸時代以降に描かれたものとわかります。その一部を、“解読”した文字を添付して転載しました。

下社御射山古図

 現在の呼称である「鎌ヶ池」は肉眼でも「月海」と読めますが、「八島ヶ池」が読めません。そこにルーペをかざして見開くと、左から「七島・星海・八島」と解読できました。伝承ではなく文字に書かれた「月と星」がそろいましたが、「日(海)」はどこにも見あたりません。諦めて湿原の中央部にある島にルーペを転じると、何と「弁才天」と書かれていました。

穂屋野の三公

 池(湿原)に弁才天は“付きもの”ですが、「弁才天の本地仏は十一面観音」と知識にあるので、「御射山の本地仏は十一面観音」と一致します。これを発展させて、湿原全域を「奥ノ院」とし、鬼ヶ泉池を「日」として加えれば、三池を「虚空蔵菩薩(星)・観音菩薩(日)・勢至菩薩(月)」とすることができます。これは、奥ノ院(御射山)に登って「穂屋野の三公」を祭った『下社神宮寺寛保の起立書』と符合します。
 御射山祭が盛大に行われた中世の八島ヶ原湿原がどのような状態であったのかは知る由もありませんが、現在も「無底池」があるので、湿原の中央にある(弁天)島で祭事を行うのは難しかったと思われます。そこで、里に近い場所に祭場を作り、三公を祭ったと考えることができます。
 以上、下社神宮寺(下諏訪別当寺)の立場で書くとこのようになりました。

虚空蔵と御射山の位置関係(下社と上社の御射山祭)

 “普通の目”でこの絵図を見ると、左上に「鷲が峯」とあり、その中腹に「虚空蔵」と書いてあります。これは、位置的にも、諏訪大社下社の末社「国常立命社」の前身である「大元尊社」であるのは間違いありません。因みに、現在も9月27日に神職が参向して大元尊社祭が行われています。
 霧ヶ峰から武居入(たけいいり)に移った現在の御射山を見ると、国常立命社(大元尊・虚空蔵)は、離れた右方の尾根上に鎮座しています。これで、『下社御射山古図』に描かれた、三済山から離れた場所にある虚空蔵との位置関係をそのまま御射山に持ち込んだ(再現した)ことがわかります。

 ここで「上社の御射山」を持ち出すと話が飛んでしまいますが、私が長らく不思議に思っていた、大四御庵社と御射山社・国常立命社(虚空蔵)の間が“あれだけ離れている”疑問がこれで氷解しました。『諏方大明神画詞』の御射山祭の中で大祝が大四御庵の前で(離れた)山御庵に向かって御手祓をするのは、「遙拝した」と理解できました。
 こうなると、下社の御射山祭がより古態を残していると思えてきますから、(上社の氏子である私ですが)上社の御射山祭は下社から導入したとする方向に傾いてきます。

穂屋野の三公・穂屋野の三光

 『下社御射山古図』に関した記述のみ「三済山社」と表記しています。

 諏訪神社では国常立命(虚空蔵菩薩)と御射山の関係だけですが、神仏習合が進むにつれ三公の影響を無視できなくなったのでしょう。それに適合させるために、新たに八千矛社と児宮の二社を“据えた”ことが考えられます。

下社御射山古図 左図は、『下社御射山古図』の「本三済山」の部分を拡大したものです。社壇と思われる枠内に「八千矛宮・御宮地・」と書いてあります。は自信を持って読めないという代字ですが、大文字の「御宮地」と同じ「御」に見えます。私は「児宮(兒宮)」としたいところですが、残念ながら「御宮」とするしかありません。
 『下社御射山古図』にある本三済山は、絵図の作者が、現在の御射山「児宮社・御射山社・八千矛社」を中世の御射山に反映させて描いたのは間違いありません。しかし、「児宮は後代の勧請」ですから、これでは矛盾が生じます。そこで、“時代考証”上から曖昧な「御宮」としたのでしょうか。

 以上のように、多くの“憶測”ができることからも、「穂屋野の三光」は後付けのものと考えることができます。そのため、「三光」に首を突っ込むほど、どうしても、神宮寺の祭事「三公」から転じたものが「穂屋野の三光」ということになってしまいます。

タテシナ嶽(蓼科山)

下社御射山古図 本三済山の境内地に「東」と書いてあります。絵図に書かれた方位はここだけなので、三済山が絵図の中心地ということになります。気になるその延長先に目をやると、果たして「タテシナ嶽」です。地図上でも「諏訪富士」とも呼ばれる蓼科山を正面にしているので、御射山祭の原初は「蓼科山と湿原の複合崇拝」とすることもできます。
 縄文時代の遺構でも、蓼科山に向けた列石が続いている例があります。しかし、中世から縄文時代まで飛ぶのは私では力不足です。「日月星」も何か中途半端な内容になってしまったので、“大ボロ”が出ない前に終えることにしました。


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