『信州デジくら』に、『諏方御柱行列細見』が“収蔵”してあります。裏の枠外に「萬延元庚申四月九日…」と書き込みがあるので、幕末の作でしょうか。その33cm×45cmという絵図から、「大祝(おおほうり)騎乗」の段だけをカットして転載しました。
さらに、□枠の部分を拡大してみました。
ゴチャゴチャしていますが、「大祝騎乗」のタイトルから、大祝が馬に乗っている姿が判別できるかと思います。
しかし、「日傘の下で大祝が兜のような帽子を被って弓を携えている」と補足できても、刷りが不鮮明なので、大祝以外の従者がどのように描かれているのかはわかりません。
参考になるものがないかと探すと、上田正昭監修『図説御柱祭』に「御柱祭礼図<部分>」が載っていました。寛政11年(1799)に「山中方英が湖浮州に描かせた」と説明があります。
これを見てしまうと、不鮮明な『諏方御柱行列細見』をなぜ載せたのかということになってしまいます。しかし、絶対多数の庶民はこの絵図を見たことはなく、その存在すらも知らなかったでしょう。
黒一色の版画であっても、あれこれ想像をたくましくして楽しんだ絵だったとして、お蔵入りをせずに紹介しました。
それは別として、大祝の装束に注目して下さい。奇妙な笠を被り、梶葉を藍摺りにした狩衣をまとっているのがわかります。この出で立ちについては、文字としては『諏方大明神画詞』があります。〔御射山祭〕の段に「神官行粧(ぎょうそう※旅装束)騎馬の行列五月会に同じ」とあるので、〔五月会〕を探すと、以下のようにありました。
ここに「菅笠」とあるのが、前出の「兜のような帽子・奇妙な笠」です。また、〔押立御狩〕の段にもあるので、御射山を含む年四回の御狩神事にも用いたことがわかります。
この菅笠は、大祝が正装時に着用する笠となりますが、井出道貞著『信濃奇勝録』では、行騰(むかばき)などの装束とともに図入で紹介しています。
上部の説明文は読みたい方任せとしましたが、江戸時代のかな漢字です。結局、私の老婆心からテキストに直してしまいました。
八角二蓋級笠(はっかくにかいのしなかさ)、又綾笠と云(いう)、
縁五色錦(にしき)白糸にて十文字をかける、あじろ(網代)八角に組、径一尺二寸許(ばかり)、志(し)なの木あいの皮厚さ五りん(厘)はば(幅)五分、
八角へ一筋つつ(づつ)、幅五分許厚さ一分五色錦にて巻(まく)、二枚の間は檜曲(まげ)もの、高さ一寸径八寸白木、
御柱祭御射山祭の節大祝着用、
シナノキの別名が「科の木・級の木・榀の木」ですから、この笠は、字の通りの「シナノキで作った八角形の笠を二段にしたもの」となります。
しかし、説明文を何回読んでも挿絵とは一致しませんから、写真を用意しました。
『信濃奇勝録』を読んでいたら、〔松皮琴囊(しょうひのきんのう)〕の項に
とあるのを見つけました。何かが閃いたので「暖皮」をネットで検索すると、サイト『キノコとあそぶ』に以下の文がありました。
『信濃奇勝録』では「あいの皮」ですが、これを「間皮・暖皮」として間違いないでしょう。知らなくても一向に不自由しない知識ですが、せっかくなので、ここに「あいの皮」を調べた顛末を書き加えてみました。
『諏方大明神画詞』では、「力者二人を相具して柄長の杓並に引目をもたしむ」と書いています。
次は、岩本尚賢稿『諏訪上下社御柱祭古今』から抜粋しました。
解題に「寛政頃の人と記」とある『諏方誌』から転載しました。
一、正月廿八日、大祝其所に赴く、これを野出と云、馬にて直路を走らせ前駆の者大なる柄杓を持つ如何なる遺事なるや詳ならず、
このように、大祝の側には、太刀持ちならぬ「ヒシャク持ち」が控えていたことがわかります。再び、『諏方御柱行列細見』からその絵を左に用意しました。「ヒ(シ)ヤク」と書かれ、飾りの布が結わえられているように見えます。残念ながらカラーの『御柱祭礼図』ではカットされているので、具体的な形は不明です。
この長い柄が付いたヒシャクは、大祝が神殿(ごうどの※館)から外出する際には必携のようで、各種の文献で散見します。その用途は大祝の手洗い用とされていますが、今で言うポータブルトイレと見て間違いないでしょう。そのために長柄にしたと想像できます。
「国立国会図書館デジタル化資料」から、昭和13年発行の増沢商店情報課編『日本第一大軍神官幣大社諏訪神社式年御柱大祭記念』の口絵を転載しました。「御柱街道図と江戸期の御柱祭礼図」と説明がありますが、巻末の「編集室より」から、「宝永年間頃の古図を□石画伯によって模写…」とわかりました。付箋にそれぞれの説明が書かれていたはずですが、省略してあるので、この時代での名称はわかりません。
両図を見ると、ヒシャクは前方の離れた位置に描かれています。生き神とは言え使用直後のまだ滴っているものを担ぐわけにはいきませんから、パレード(行列)用のヒシャクは、すでに形式的・象徴的な飾りになっていると思われます。江戸時代中期でも「如何なる遺事か」と書いていますから、実際に使用するヒシャクは別にあったのでしょう。
上記の他、諏訪には幾つかの御柱行列を描いた絵が存在していると思われますが、一般には公開されていないようです。