平成22年は御柱年です。諏訪大社では宝殿の式年造営が行われます。平成21年3月に西宝殿の解体が始まり、今日の地鎮祭を迎えました。
前回は屋根の葺き替えだけだったので、「12年ぶりとなる今回は何が何でも」と勇んで出かけました。西宝殿はすでに礎石だけの状態で、敷地には忌竹(いみだけ)に注連縄が張られ、祭壇・盛り砂の“仕様”は一般の地鎮祭と同じようです。LCVのクルーが、神職と撮影場所の打ち合わせをしています。その話から、私のカメラでは広角側が不利なので、布橋から撮ることにしました。11時半、ようやく気温がプラスに転じた中で始まりました。
修祓の後、正面の祭壇に向かってのお祓いは二回でした。始めは小さく、一歩下がって大きく(普通に)振りましたから、大幣帛・祭壇の順に祓ったことがわかりました。
「降神」の声で、原祢宜が祭壇の前で「おー」と警蹕を発しました。これで、大幣帛に地主神が降りたことになりますが、率直に言って、諏訪大社の境内でも「この手続きが必要」なのが不思議でした。
瓶子の蓋を外す献饌が終わると、「次に…」ですが、よく聞き取れないので「祝詞奏上」としました。背後の離れた場所なので「古き昔より受け継ぎ伝えきませる ためしのまにまに(例しの随に)…、式年造営御柱大祭にあたり…、宝殿…」と断片的にしか聞き取れません。
「四方祓い」は、“民間”では塩や酒も撒くそうですが、ここでは切麻(きりぬさ)だけでした。「穿初の儀(うがちぞめのぎ)」は、施主となる平林宮司が、盛り砂に「エイ、エイ、エイ」と鍬を入れました。宮司に就任してから初めての宝殿地鎮祭です。この日を迎えた胸中を推し測ることはできませんが、声に張りが感じられました。今日は「立場」が逆転して、紋付袴姿でした。続いての「地曳の儀(じびきのぎ)」は、施工者である笠原工務所社長が鋤を入れました。
玉串奉奠は、諏訪大社の宮大工である原秀光さんと御用材を奉納した木曽郡上松町の「池田木材」の二人も加わりました。撤饌・昇神(しょうしん)で、20分強の地鎮祭が終わりました。
神事終了後の写真です。宝殿は、かつては掘っ建て、さらに丸石の礎石と変遷し、現在は一寸角の穴が開いた「神宮寺石」の礎石です。このアズキ色の石肌を見ると、強く諏訪大社を意識してしまうのが不思議です。
宝殿はこの場所に連綿と立て替え続けられてきたわけですが、見回しても整地された更地ですから、古代の息吹は伝わってきませんでした。