このサイトで、時々〔御柱祭の物忌み(タブー)〕を閲覧する人がいます。全体から見れば微々たる人数ですが、御柱祭関連ではトップの閲覧数になります。それだけ興味を引く(または奇異な)事柄なのでしょう。
その内容の一つが「御営造(※式年造営)には人を引導する事はなし、弓のつるうちまわして其の内の土を掘り、土葬して次の年取り出て引導する也」とある、中世に書かれた『信濃国諏方上社物忌令』の物忌みです。
黒坂周平・小松克己著『古文書に歴史を読む(2)長野』があります。ここに集録された浅川清栄さん担当〔諏訪神社信仰〕から、『口上書覚』を取り上げてみました。
解説では「文化四年(1807)六月、神長官守矢岩江(実綿)が神祇官領の吉田家に対し、藩主宛の神道宗門の証状と神道葬祭の許状の下付を願った文書に添えた文書の控である」とあります。何かよく理解できませんが、読み流しても大勢には影響しないでしょう。
この文書の影印(写真)が載っていますが、…読めないので、〔史料U〕とある書き下し文を抜粋して転載しました。
一 当社之義、神代以来之社伝ヲ以、年々正月朔日当郡中村々ゟ(より)産子為二惣代一、両三人宛神前江参籠仕、五官之内神長官於二神前ニ一、以二神籤任二神慮一、其年御頭三祭礼之神供・鹿役・夫(その)人足相定、右相当候村ゟ右三祭礼神供并神献惣而之品々相納、
夫々神役・夫人足等差出侯ニ付、右年番ニ当り候村江者其年七月朔日限リ郡主よりも諸役被二差免一候、但年番ニ相当り候村内ニおいて其年死失人有レ之候得者、神長官家江申届、鳥目三貫三百三拾三文為二地質賄料一、差出候得者、社伝之法式ヲ以墓所地差免候、
且亦(かつまた)七年ニ一度宛之御柱祭礼年も社近所之者共之内ニ而死失人有レ之候而も、右同様之義ニ而、古今仕来相替儀無二御座一候、
無レ左侯而者、其年村内ニ死失人有レ之候共、通例之葬地不二相成一社法ニ御座候、
マーキングした箇所のみを、読み下し風に書き直して見ました。
「年番に当たる村」とあるのを読んで、物忌令は「御頭郷」にも適用されることを知りました。この“措置”は御柱祭のみと理解してきましたから、『諏訪大社上社の御柱』を運営する私としては(大いに)慌てました。
さらに新しい知識を得ました。実は「近所の者共」を“近所の人”と一人頷きをして、脚注があるのを無視していました。しかし、最後の確認時にそれを読むと、「諏訪神社上社に隣接する村」とありました。こうなると、その他の村は適用外ということになります。
「3貫333文を出せば、仮埋葬できる」ということですが、その金額を現在の貨幣価値に換算できません。ただ莫大な負担ということは想像できますから、「皆に迷惑を掛けられない」と、御頭郷が解散するまでは「まだ生きている」と申し合わせたことは考えられます。しかし、御柱年は一年間です。神長官も生活がかかっていますから、「当方の調査によれば」と突っ込まれれば、しらばっくれることは(まず)不可能でしょうか。
改めて「3貫文余」という高額を考えると、これは一村が納める“負担金”で、何人死んでも同額と理解できそうです。
諏訪には、この物忌み用の墓地が今でも残っているそうです。そこには墓石が建っていると言いますから、年が明けても、掘り起こして先祖代々の墓へ移されることはなかったことになります。もしかしたら、その墓地は、公にできない(物忌み用ではない)“それ用の隠し墓”であったと考えた方が理解しやすくなります。
末尾に「当社は異端寂滅(※仏教)の教を受けない。神代より遺道神道葬祭を保ってきたが、中古の仏法来朝以来度々の兵乱で神領も微々になり…」と書いています。神葬は不可となり仏葬のみという時代では、社家では唯一葬儀に関わる収入として「買地ノ式」を残してきたということでしょう。
『寛政六年八月 神長官死去買地之式書留』と題がついた、長野県『長野県史 近代史料編 第三巻南信地方』に収められた文書があります。文末の「参照文献」から『神長守矢氏系譜』とわかります。
神長官であっても、買地之式を行ったことがわかります。また、「買地之式を行って(即)本葬した」とも読めます。もしかしたら、この時代では、社家・民間とも「式を済ませて(金を払って)」通常の埋葬をしたことも考えられます。
以下は、同文書の欄外にあるものです。明治維新の文字があるように、明治期に書き込まれたものとなります。
前出の『口上書覚』の脚注「神宮寺・宮田渡…」は、これを参照したことがわかりました。