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神長官『口上書覚』  '15.5.14

 このサイトで、時々〔御柱祭の物忌み(タブー)〕を閲覧する人がいます。全体から見れば微々たる人数ですが、御柱祭関連ではトップの閲覧数になります。それだけ興味を引く(または奇異な)事柄なのでしょう。

神長官夏直路廟
物忌令による仮埋葬地「神長官夏直路廟」

 その内容の一つが「御営造(※式年造営)には人を引導する事はなし、弓のつるうちまわして其の内の土を掘り、土葬して次の年取り出て引導する也」とある、中世に書かれた『信濃国諏方上社物忌令』の物忌みです。

 黒坂周平・小松克己著『古文書に歴史を読む(2)長野』があります。ここに集録された浅川清栄さん担当〔諏訪神社信仰〕から、『口上書覚』を取り上げてみました。
 解説では「文化四年(1807)六月、神長官守矢岩江(実綿)が神祇官領の吉田家に対し、藩主宛の神道宗門の証状と神道葬祭の許状の下付を願った文書に添えた文書の控である」とあります。何かよく理解できませんが、読み流しても大勢には影響しないでしょう。

物忌令は、毎年の御頭郷も対象

 この文書の影印(写真)が載っていますが、…読めないので、〔史料U〕とある書き下し文を抜粋して転載しました。

口上書覚

一 当社之義、神代以来之社伝以、年々正月朔日当郡中村々ゟ(より)産子為惣代、両三人宛神前参籠仕、五官之内神長官於神前、以神籤任神慮、其年御頭三祭礼之神供・鹿役・夫(その)人足相定、右相当候村ゟ右三祭礼神供神献惣之品々相納、
 夫々神役・夫人足等差出侯付、右年番当り候村江者其年七月朔日限郡主よりも諸役被差免候、但年番相当り候村内おいて其年死失人有之候得、神長官家申届、鳥目三貫三百三拾三文為地質賄料、差出候得、社伝之法式以墓所地差免候
 且亦(かつまた)七年一度宛之御柱祭礼年も社近所之者共之内ニ而死失人有之候も、右同様之義ニ而、古今仕来相替儀無御座候、
 無左侯而者、其年村内死失人有之候共、通例之葬地不相成社法御座候、

 マーキングした箇所のみを、読み下し風に書き直して見ました。

 年番に相当たりそうろう村内において、その年死失人これ有りそうらえば、神長官家へ申し届け、鳥目(※穴あき銭)三貫三百三拾三文を地質賄い料と為し、差し出しそうらえば、社伝の法式を以て墓所地差し免じそうろう、
 且つ又、7年に一度当ての御柱の祭礼年も、社や近所の者共の内にて死失者これ有りそうらいても、右同様の儀にて、
 神宮寺・宮田渡・高部・小町屋・安国寺の諸村(要約)

 「年番に当たる村」とあるのを読んで、物忌令は「御頭郷」にも適用されることを知りました。この“措置”は御柱祭のみと理解してきましたから、『諏訪大社上社の御柱』を運営する私としては(大いに)慌てました。

物忌令(買地ノ式)を受ける村々

 さらに新しい知識を得ました。実は「近所の者共」を“近所の人”と一人頷きをして、脚注があるのを無視していました。しかし、最後の確認時にそれを読むと、「諏訪神社上社に隣接する村」とありました。こうなると、その他の村は適用外ということになります。

地質賄料は、3貫333文也

 「3貫333文を出せば、仮埋葬できる」ということですが、その金額を現在の貨幣価値に換算できません。ただ莫大な負担ということは想像できますから、「皆に迷惑を掛けられない」と、御頭郷が解散するまでは「まだ生きている」と申し合わせたことは考えられます。しかし、御柱年は一年間です。神長官も生活がかかっていますから、「当方の調査によれば」と突っ込まれれば、しらばっくれることは(まず)不可能でしょうか。
 改めて「3貫文余」という高額を考えると、これは一村が納める“負担金”で、何人死んでも同額と理解できそうです。

御柱年に用意された墓地の墓は改葬しなかった!?

 諏訪には、この物忌み用の墓地が今でも残っているそうです。そこには墓石が建っていると言いますから、年が明けても、掘り起こして先祖代々の墓へ移されることはなかったことになります。もしかしたら、その墓地は、公にできない(物忌み用ではない)“それ用の隠し墓”であったと考えた方が理解しやすくなります。

 末尾に「当社は異端寂滅(※仏教)の教を受けない。神代より遺道神道葬祭を保ってきたが、中古の仏法来朝以来度々の兵乱で神領も微々になり…」と書いています。神葬は不可となり仏葬のみという時代では、社家では唯一葬儀に関わる収入として「買地ノ式」を残してきたということでしょう。

「買地ノ事」

 『寛政六年八月 神長官死去買地之式書留』と題がついた、長野県『長野県史 近代史料編 第三巻南信地方』に収められた文書があります。文末の「参照文献」から『神長守矢氏系譜』とわかります。

(守矢)実友─(※系図)
 寛政六年申寅八月十九日卒、齢七十五、此年御柱祭以、随例行買地之式以本廟葬、

 神長官であっても、買地之式を行ったことがわかります。また、「買地之式を行って(即)本葬した」とも読めます。もしかしたら、この時代では、社家・民間とも「式を済ませて(金を払って)」通常の埋葬をしたことも考えられます。
 以下は、同文書の欄外にあるものです。明治維新の文字があるように、明治期に書き込まれたものとなります。

寅・申御柱年、神宮寺・宮田渡・高部・小町屋・安国寺等の各村々死亡者ある時は当家に申し出、買地免の封物並弓弦を遣わす、其弓弦を張回し埋葬する古例也、其他毎年御頭役に当りし郷村に死亡者あれば、同様買地ノ免を請埋葬する例なり、明治維新に至り止む、

 前出の『口上書覚』の脚注「神宮寺・宮田渡…」は、これを参照したことがわかりました。