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御射山祭(一)

「御射山祭」の表記について
諏訪大社の公式サイト『諏訪大社祭事表』に載っているように、前宮の「溝上社祭」から御射山の「御射山社祭」「国常立命社祭」「大四御庵社祭」など、多くの摂社末社で神事が行われます。このサイトでは、三日間行われる祭りを総称して、(御射山祭ではなく)「御射山祭」としています。

 まずは、“小手調べ”で『諏方大明神画詞』を読んでください。もちろん、強制するものではありません。

 廿六日小月廿五日、御射山登(のぼり)まし、大祝(おおほうり)神殿(ごうどの)を出て、先ず前宮・溝上の両社へ詣でて後、進発の儀式あり、神官行粧(ぎょうそう※旅装束)騎馬の行列五月会に同じ、御旗二流の外、御札十三所(※前宮の13神)神名帳銅の札を鉾に付けたりを加う、神長是をさす、先陣既に酒室の社(※酒室神社)に至る、神事饗膳あり、又、神物・鞍馬・武具是をひく(※引き出物)別頭役、色衆(しきしゅ※当色・当日の役を務める神人)小頭(こがしら)に同じ、三献(さんこん)の後、雅楽(がこう)大草薄穂をとる、群集の人数を算数する儀あり、
(絵是在り)
 酒室の神事畢て(終わりて)、長峯へ打ちのぼりて行々山野を狩る、必ず神事の法則に非ずと云えとも、鷹など据えて使う者もあり、禽獣を立てて射取る者もあり、漸く晩頭(※日暮れ始め)に及んで物見ヶ岡(※原村柏木)に至る、見物の緇素(しそ※僧と俗人)群集す、さて大鳥居を過る時は一騎充(づつ)(声)をあげてとおる、前官男女の部類、乗輿騎馬の類(たぐい)、前後につづきて櫛の羽(歯)の如し、凡そ諸国の参詣の輩、技芸の族(なな)(※ママ)(み)山より群集して一山に充満す、今夜参着の貴賤面々信を起こし掌(手)を合わせて祈念す、諸道の輩衆芸を施す、又、乞食・非人此処に集まる、参詣の施行(せぎょう※施し)更に隙(ひま※絶え間)なし、都鄙(とひ※都と田舎)の高客所々に市をなす、盗賊対治(退治)の為に社家警護を至す(致す)、巡人の甲士(※鎧を着た武士)昼夜おこたらず、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』〔諏方祭〕

御射山祭(初日)'06.8.26

 諏訪大社の祭事表には「御射山」の名称はなく、「前宮月次祭・柏手社祭・溝上社祭・酒室社祭・闢廬社祭」と書いています。

上社本宮

御射山祭「本宮でお祓い」 今年の御射山祭初日は土曜日です。そのため、以前より暖めていた「国常立命の神輿に一日付き合う」という計画を実行することにしました。
 御射山祭は9時からと聞いていましたが、それは出発時間で、8時45分には烏帽子白丁(とスニーカー)で身を固めた富士見町神戸(ごうど)区の人達がお祓いを受けていました。

 諏訪大社上社の御射山祭が26日から3日間の日程で始まった。初日は御神体の入った神輿を諏訪市の上社本宮から富士見町神戸の御射山社まで運ぶ「神輿迎え」が行われた。神戸区第七常会の有志が白装束に身を包み、担いで運んだ。
 神輿は例年、車で運搬していたが、3年前の当番常会から古式にのっとり、担いで御射山社へ運んでいる。担ぎ手は19から55歳の10人。神輿の前後を1人ずつ担ぎ、交代しながら約15キロの道のりを進んだ。一番若い小林哲也さん(19)は「神輿の重みで肩が痛いけど、皆に引っ張ってもらい何とか担げた」と伝統の重さを痛感。神輿を運ぶ責任者の小林春人さん(54)は「神様を御射山社へ届けたい一心で担いできた」と話していた。
平成18年8月27日版『長野日報HP』から抜粋

 年毎に平均年齢が変動するわけですが、今年の常会は30分弱で前宮へ到着しました。ここで神輿を十間廊に安置して、(御射山祭とは関係ない)前宮月次祭(つきなみさい)を行ないます。その後に内御玉殿を拝礼し、年に一度の溝上社祭(9:55)・柏手社祭(10:15)と続きます。その様子は「上社散歩道」の〔柏手社〕と〔溝上社〕を参照して下さい。

御射山祭の行列 10時45分に前宮を出発しました。この時点で「御射山祭登御(のぼりまし)の全行程を徒歩で」との意気込みもこの暑さでは失せていましたから、「車で先回りして徒歩で戻る」という作戦をとりました。
 しかし、初めてのことなので、どの道をどう通るのか分かりません。県道から中央自動車道の側道に入ってきた行列の先頭を見つけ、取りあえず第一回目の予想は当たりました。
 「神輿迎え」は常会の数である7年毎に担当しますから、構成メンバーは大きく替わります。同行する諏訪大社の神職も違いますから、分岐では確認をとる光景も見られました。
 昔ながらの道では人家も疎らですから、迎える人も見送る人もいません。暑さを余り感じさせない程よい風の中、神職を横に控えさせた神輿は粛々と進みます。傍目(はため)には淋しい道行(みちゆき)に見えると思いますが、全員隣近所とあって和やかです。その速さに合わせるのが苦痛のサポート車がしんがりを務めます。

御頭御社宮司社拝礼 茅野市宮川

御射山祭「御頭御社宮司社拝礼」 11時20分、宮川御頭御社宮司社に拝礼してから一服です。私は行列に付き合うだけの部外者ですが、気を遣ってくれたのか、冷たい飲み物のお裾分けがあり恐縮しました。
 この御社宮司社は、中央自動車道建設で移転したと聞いています。木々が目隠しになっていますが、その向こうが高速道路の高架です。

御射山祭「酒室神社へ」 こんな道があったのか、という夏草を轍(わだち)が分断したのどかな道を進みます。ときには半車線になるので、サポート車は回り道を強いられます。
 どこからとも知れない、といっても、その音源は酒室神社とわかっている「今日はお祭り日」を知らせる歌謡曲が、いつの間にか当たり前のものになっています。しかし、それが神輿の御幸に相応しくないものとして、私に苦痛を感じさせるようになってきました。それだけ次の目的地・酒室神社に近づいたということなのでしょう。
 遠くであっても車の行き交いで国道とわかっていましたが、道が大きく左に曲がった先のT字路がその国道20号(※現在は県道197号)でした。露店がまだ準備中という境内へ11時45分に着き、神輿は拝殿前左に安置されました。

酒室神社例祭 茅野市坂室

 ここで神輿担ぎ組は、坂室区から昼食の接待を受けます。私と違って「通し」で行列に加わっていた年配の男性と祭りを調べているという大学生の男女が、その誘いを受けているのが見えます。境内はまだ区の役員しかいませんから、ザックを背負った人は「遠来の客」と見なされるのでしょう。社殿の反対側という離れた位置にいた私にはその恩恵は届かず、羨むばかりでした。「前もって用意したパンが無駄にならなくてよかった」という負け惜しみを(いつもテレビCMの影響でチョイスしてしまう)伊右衛門で流し込みました。

御射山祭「酒室神社神事」 正午、着替えた神職が拝殿に向かいます。年に一度の例祭ですが神事の式次第は諏訪大社と同じようです。今日は大社の年間神事の一つでもある「酒室神社参向」ですが、祭主はあくまで酒室神社の宮司です。「来賓として招かれた諏訪大社の宮司が祝辞を奏上し幣帛を捧げる」という説明になるでしょうか。
 隣に居合わせた氏子の一人に訊いてみました。「酒室神社の千野宮司が体調を崩しているため、去年までは(神職の)孫娘が代理で来た。今年は(その彼女も)都合がつかず、近在十六ヶ所を預かる平林宮司に御願いした」と解説してくれました。
 終了後、案(机)に戻された神饌を観察しました。三方の一つには、幣帛と「神社本庁」と書かれた幣帛料がありました。気になった発砲スチロールの箱ですが、隙間から覗くと何と鯉です。まだエラを動かしているので活魚です…。
 1時前に神輿が動き始めました。予想した神社脇から丸山へ上る道ではなく国道に戻ります。それに合わせて、合流したときは極近でしたが今でははるか遠くになってしまったスーパーの駐車場に戻りましたが、焦りが加わった早足に大汗をかいてしまいました。国道へ戻ったからには「あの道しかない」と、徒歩との時間差を計算して追い越すはずでしたが、…消えてしまいました。

虚空蔵菩薩拝礼 原村柏木

 次に寄るのは原村です。「柏木ならあの神社」と疑うことなくその前に立ちましたが、…人っ子一人いません。今まで続いてきた何時間かの流れが止まってしまいました。「ここでなければ」と記憶の中を検索しました。「もしかしたら」と向かった神社の丘を眺めると、車が何台か見えます。30年住み慣れた原村ですが、この名前知らずの神社に神輿が立ち寄るとは思いも寄りませんでした。
 上に登ると、顔見知りの諏訪大社大総代を始め区の役員が集まっていました。本には「老若男女が出迎える」とありますが、現実は圧倒的に“老老女女”の構成でした。改めて女性の長寿を実感し、神輿の到着を待ち続ける心意気に感嘆しました。

御射山祭「虚空蔵菩薩碑へ」 この場所は高台になっています。かつて、下から登ってくる大祝一行を見て、今か今かと待ち受ける人々に知らせた「物見ヶ岡」も、今では人家が増え見通しが全く利きません。それに代わって、ここでは距離は余りありませんがその気分を味わうことができます。JA柏木支所の横に神輿の先頭が現れると、「来た来た」と声が挙がりました。
 ここにも古い社殿がありますが、御射山祭に関係があるのは境内にある「虚空蔵菩薩」碑です。本に「国常立命は虚空蔵菩薩と同一視された」とありますから、神社ではなくこの碑に敬意を表するのでしょう。明治までは仏教の方が圧倒的に優勢だったので、国常立命ではなく虚空蔵菩薩としたのでしょう。神輿は専用の置き場に安置されました。

御射山祭「虚空蔵菩薩碑拝礼」 2時15分、着替えて衣服を正した同行の神職が碑の前に立ちました。
 神事は、お祓いと玉串奉奠です。御射山祭には鯉が付きもののようで、ここでも酸素で膨らんだビニール袋に入れた活鯉が供えてありました。やはり、物流の便がよくなっても山国の諏訪では「鯛」は馴染まないのでしょう。この神社には参集所がないのでテントの仮設接待所が設けられ、一同供宴に与ります。

闢廬社例祭 原村室内

 車で先回りした闢廬(あきほ)社で、今度は室内区の役員と共に神輿を待ちます。この頃には完全に日が陰り黒雲も広がってきました。風も強く夏というのに寒く感じられます。待つ間の雑談に、「今でも、弓振川沿いの旧来の道を辿る」が出ました。最近歩いたという人が呼応して、「構造改善(耕地整理)(地元の私でも)戻ったり跨いだりの連続だった」と合わせます。それで合点がいきました。私は原村へ向かう“幹線道路”でしたから、尾根一つ違う神輿の行列には永久に会えなかったわけです。

御射山祭「闢廬社」 彼方の小さな白いものが徐々に人の姿に変わりました。
 3時10分に境内着。拝殿の左前に神輿を下ろします。かなり疲れた様子で、烏帽子の下から覗く髪がかなり乱れています。口数も少なく顔の表情も硬くなっているのが見て取れました。酒室神社からは八ヶ岳の裾野を上ります。登山道のような急坂ではありませんが、その見えない負荷が徐々に効いてきたのでしょう。

御射山祭「闢廬社神事」 拝殿扉の左右にはススキ一握りが飾られています。ここでも闢廬社の宮司が祭主となります。中で神職が動き回っているのは分かりますが、狭いのでその詳細は分かりません。
 いつしか、神事を見るだけという連続に、もう沢山(うんざり)の心境に代わりつつありましたから、漫然と見ている内に神事は終わりました。私は、最後の接待に与るために公民館に向かう行列を見ながら自宅に戻りました。
 自宅でお茶を飲んで待機できる、という地元の利に感謝しました。時間を見計らって御射山社へ向かいましたが、雨がポツリポツリと…。頭上が大木の傘なので手持ちの傘が邪魔となる中、迎えの神戸区の役員が人待ち顔です。この時間でも明日の準備に間に合わないのか、諏訪大社の関係者が動き回っています。軽トラックから下ろされたのはススキでした。明日の「御守り」がまだ足りないのか選別を始めました。

御射山社到着 富士見町御射山

御射山社到着 携帯で現在位置のやり取りをしていた役員の一人が、落ち着かないのか県道が見通せる場所まで移動しました。コースはその年の常会任せなので毎年異なるそうです。ウナギを放流する御手洗川側から来たこともあるそうです。今年はもっとも順当な道と確認したので、写真を撮るために迎えに行きました。

御射山社到着 5時半、待ち受けていた神職が直ちに御霊代を神輿から国常立命社に遷しました。中日(明日)と違い、神職と居合わせた数人が見守るだけの遷座でした。
 一方、ようやくその役目から開放された第七常会の面々は、「お疲れ様」の声を受けながら穂屋に向かっていました。多分、ねぎらいの宴(直会)が待っていると思われますが、すでに何度も接待を受けていますから「早く自宅へ帰って一風呂浴びたい」が本音でしょうか。
 私は「現在の」御射山祭初日の全容を、本の活字ではなく実体感したことで「このサイトの重みが増したと」満足しました。できれば歩き通したかったのですが。