『諏方大明神画詞』から転載しました。
諏訪大社の祭事表では「御射山社祭」と書いています。
本に、御射山祭二日目は「早朝5時半に始まる」とあるのは間違いではありませんでした。諏訪大社本宮の布橋から、はやる気持ちと足を一旦休めて斉庭(ゆにわ)を覗くと、神輿はすでに幣拝殿前に置かれていました。
こんな早朝から人騒がせな、という拍手の源は若い男女3人でした。授与所から拝門の前に続く石畳を往復し、拝門に着くとパンパンと手を打ちます。旧オーム真理教が諏訪大社にも(社会見学で)来たことがありますから、正体不明の裸足(はだし)とタビ姿に、(自分の土地ではありませんが)何か土足で踏み込まれたような思いでした。
あまりの違和感に、一石を投じるようにその前を横切り拝門前に陣取りました。傍らで回数をチェックする印を置く彼らに、「そこまでやる(できる)のか」とある種の羨ましさを感じながら撮ったのが上の写真です。5時25分でした。
神輿は、今日は人の肩ではなく軽トラの荷台です。私には、昨日に続き「先回り」という重い条件がありますから、降り始めた雨を受けて原村に急ぎ戻りました。柏木の大山祇神社周辺の道は狭いので、離れていますがJA(旧農協)の支所に車を預けました。
焦ったのが功を奏して、今か今かと待つほどの余裕ができました。待つ間の雑談の中で、諏訪大社宮司の「御射山祭をできるだけ古式に戻したい」との希望で、「今年から上社のお膝元神宮寺区から選ばれた4人が神輿を運ぶようになった」と聞きました。
6時過ぎに神輿が到着し、年に一回だけ使われる御座所(石台)に安置されました。今日は諏訪大神の神霊が奉安された神輿ですが、昨日と違い白木造りです。ここでも地元役員と原村の諏訪大社大総代が迎えます。
神事終了後、紫の袴を着けた神職から挨拶がありました。神事の現況などは、初めて立ち会う私にとっては短いながらも参考になりました。御神酒が全員に配られると、「《おめでとうございます》や《頂きます》または《献杯(けんぱい)》と言う場合もあります」と締めくくりました。しかし、その直後にも関わらず、「乾杯!」をしっかり聞いてしまいました。
ここでも神輿くぐりがあります。御射山社の二歳児限定の神事ではありませんから、孫と見られる子供の手を引いた“じじ・ばば”や、その場に居合わせた人々が神輿をくぐります。それを写真に収めながら、同じ原村の八ツ手(やつで)に向かいました。
火の見櫓の脇に小さな家と石碑が幾つかあるのを、車の窓越しでは知っていました。今日、朝の6時半にその前に立って、「小さな家」が「虚空蔵堂」であることを初めて知りました。
彩度が低い曇天の中で、灯りの入った赤い神灯二つが「今日はお祭り日」を鮮やかに演出しています。また、御堂の前はススキで厚く囲われ、御射山祭の別名「穂屋祭」の雰囲気をよく醸し出しています。その周辺には、すでに役員を始め大勢の大人や(神事後にもらえるお菓子に釣られた)子供が集っていました。
崩しようがない決められたパターンの神事が終わると、神輿に関わる人達は、ここで直会兼朝食となります。私も何か腹に入れなければ、と一旦自宅へ戻りました。
原村中新田の津島社は地図上でしか知らないので、かなりの余裕を持って自宅を出ました。たまたま顔を合わせた地元の人から聞いた道を、民家の花や辻の道祖神などを見ながら進みます。後ろからクラクションが聞こえます。二度目のクラクションで、それが私に向けられたものであることが分かりました。振り返ると知り合いの大総代です。指の動きで、右折すべき所をすでに通り過ぎたことを教えてくれました。
津島社は、原村一の“勢力”を誰もが認めている有力区にあります。広い境内には舞台と立派な社殿があり、御柱もそれに相応しいものが建っていました。
夏の7時半過ぎは早朝ではありません。しかし、神輿を迎えたのは、大山祇社と虚空蔵堂の拝礼に続く原村大総代と地元の役員のみでした。直前の柏木と八ツ手ではそれ相応に賑やかだったので、ここ中新田の住民にとっては「我関せず」の祭りなのでしょうか。
8時前に神事が始まりました。幾度か撮影場所を変える中で、神輿が安置された屋根だけの社殿が「穂屋」と理解できました。
柱に、ススキの束が結わえられていることに気がついたからです。先ほど立ち寄った虚空蔵堂の例を見ると、かつては壁面をススキで覆ったことが想像できますが…。
8時10分、続いて津島社祭に移ります。牛頭天王を祭る津島社に「諏訪大社の神職がなぜ」ということですが、これは、直前に行った穂屋祭のタイミングに合わせて(ついでに)「津島社の例祭」を行うと理解しました。
この後は中新田公民館で直会が始まるということなので、部外者の私は御射山社へ向かいました。
■ 津島社祭の参観で、私を含めた“部外者トリオ”の一人は、朝刊の記事から地元紙の記者と知りました。彼の記事では「諏訪明神の神輿が津島社に来るようになったのは明治27年(1894年)から。以降、神輿の御休所として区長らが礼服で迎えているという」とありました。中新田区としては「後発のお祭り」なので、区民が集まるという態勢をとっていないということでしょう。穂屋のススキの“量”が少ないことも納得できました。
普段は柱と屋根だけの「膳部屋」がススキで囲われ、平成の「穂屋」と名前を変えていました。明治初年までは、大祝や五官の神職・藩主や家老が参籠するために多くの穂屋が造られたそうですが、現在はこの一棟となりました。
準備中の神官に問うと、「神事は正午から」「現在、中新田公民館で直会中」と言います。再び自宅で待機することにしました。
神職に続き諏訪大社大総代や地元の総代が大四御庵(よつみいほ)社へ向かいます。すでに神輿は祠の前に置かれています。当然ながら「御狩」は行われないので、神事は献饌・祝詞奏上・玉串奉奠(ほうてん)と進みます。裃(かみしも)姿の三人は、地元御射山神戸の区長と総代です。諏訪大社の大総代は、この祭りばかりはその後ろに控えます。
大四御庵社祭が終わると、神輿は境内で最大の建造物である社殿(覆屋)に移動します。御射山社祭の始まりです。
「お頭(かしら)をお下げ下さい」の声に、神職や外で見守る大総代・招待者は一斉に頭を垂れます。
「おーー」と警蹕(けいひつ)が流れる中、覆面(紙のマスク)で鼻と口を覆った宮司が神輿から御射山社へ御霊代を遷します。その他の見物人である私は撮影こそ控えましたが、金襴に包まれた小箱が本殿の中へ収まるのを見てしまいました。
御射山社の右に並ぶ「国常立社」は、昨夕に遷座が済んでいますから、今は空の輿が隅に置かれています。動きが制約される狭い社殿ですが、その前で御射山社祭と同じ神事が行われました。
これで、御射山祭のすべてが終了かと思いました。ところが、神職と総代の行列は浅間社をトップに、西宮社・三輪社・神宮皇后社・子安社と、広い境内を縦横に駈け巡ります。磯並社を最後に終わったのが1時45分でした。浅間社を除くと他社は拝礼のみでしたが、この間は立ちっぱなしなので、高齢が多い大総代の中には石に腰掛けて休みを取る人もいました。
ここで御射山祭の御手幣(みてぐら)を紹介します。
諏訪大社関連の本には、コピーしたかのように、御手幣は「ススキと萵苣(ジシャ)」と記述しています。いつ頃から替わったのかわかりませんが、現在は「コブシの枝とススキ二本」の御手幣が捧げられます。
紅白の幕内から宮司や大総代などの挨拶が聞こえます。隙間からチラッと見えたのは折り詰めですから、これから『画詞』でいうところの「恒例の饗膳」が直会と名前を変えて始まります。一方の私はパン二切れの朝食でしたから空腹の盛りはとっくに過ぎており、遠くには(それが原因と思われる)腹痛を感じていました。露店でも腹を満たせますが、“祭り価格”の上(どこともわからない)食材の出所が気になるので食べる気にはなりません。
この後、“日帰り”となる諏訪明神は、御射山神戸の「八幡神社」に寄ってから本宮へ帰ります(次の「下御渡」参照)。それまで待てない私は、神様より一足早く自宅に帰りました。
空腹が続くとお腹が痛くなることがあります。ところが、御霊代を直視したのが祟ったのか、痛さだけではなく実際に下してしまいました。大汗(とトイレで冷や汗)をかいた後ではそれも何のその、缶ビールを空け枝豆と貰い物のハムでささやかですが御射山祭を祝いました。
今年は連日の猛暑で写真撮影の意欲が出ません。それでも、神輿出発のシーンだけが欠けていたので、2時過ぎに自宅を出ました。
午後3時、神輿は御射山神戸区の二人に担がれて移動を始めました。下御渡です。現在は「くだりまし」とは言いませんが、あえて使ってみました。御射山社の境外で軽トラに載せられた神輿は、付き添いの権宮司を助手席に乗せて神戸八幡神社へ下って行きました。
御射山社の神事は一昨年に見学したので、今年は見残した八幡社の神事を見学することにしました。
3時開始と見たのは正解でしたが、境内に集まった人からは「遅い」の声が聞かれました。年によっては、「待ちきれずに全員帰ってしまった」こともあったそうです。神事自体は厳格に定形化していますから、それに要する時間の差は出ないでしょう。御射山社から神戸八幡神社への移動も車です。そうなれば、その間に行われる「直会の盛り上がり如何によって時間差ができる」としか考えられません。山の向こうの“宴会”をあれこれ想像しても、…待つしかありません。
結局、許容範囲というか誤差というか、多分その範囲内で一行が来ました。やはり待つ身のほうが時間の流れが遅いと言うことでしょうか。
ようやく神職と役員が揃いましたが、なぜか神事の始まる気配がありません。実は、拝殿の扉が外され定紋幕も張られていますが、それ以外は“普段着”の神社です。献饌の品も見当たらないので「何かおかしい」という意識を漠然と感じていました。
拝殿前で神輿くぐり(左写真)が終わり、拝殿前に下ろした神輿に関係者一同が拝礼しました。その後の、神事の終了とも取れるの記念撮影に、「もしや」が現実のものとなりました。
すべてが終わって和んだ雰囲気の一同に掛かった「公民館へ」の声に、待ち続けていた(お呼びでない)私は、「神戸八幡社の神事は、直会がメインだったのか」と反応(憤慨)してしまいました。
自宅で諏訪大社関連の本を開くと、「氏子の拝礼を受ける」としか書いてありません。一連の神事があるとしたのは私の勝手な思い込みでした。考えてみれば、八幡神社の相殿には(すでに)諏訪明神が分祀されていますから、本人が自分の分身に挨拶するのもおかしな話ということになります。年に一回は、常駐の分身ではなく本人が訪れるということでしょうか。
岩本尚賢稿『(仮題)諏訪上社祭祀の大略』に、明治初期の様子が一部書いてありました。
この頃は、まだ大鳥居や穂屋の跡が残っていたことがわかります。