御射山祭(三)
『諏方大明神画詞』から転載しましたが、難解の上に長文なので、読み飛ばすのが“得策”です。
廿八日、神事の法則昨日の如し、其の他、御狩帰(みかりかえり)晩(おそ)きに及て、左の頭人(※左頭)饗膳をもうけ、神物色々、鞍馬・御贄等引く(※引き物)、色数(いろかず※種類)式目(※目録)の如し、芝居(※芝生に設けた席)列座の次第祭場広博(こうはく※広い)也、事々敬白(けいはく※敬い謹んで申し上げる)の奉幣、御神楽を奉りて後頭人退散す、
廿九日、祭礼の条々又昨日に同じ、御狩帰りは右頭人経営なり、盃酌の後矢抜(※矢抜の儀)あり、雅楽(がこう)に仰せて狩人の中に鹿の射手を召し出して、とがり(尖り)矢尾花を取り副(添)えたりを給う、大鹿分八、中鹿分六、妻鹿(めじか)分四、鹿子・猪鹿(いのしし)各三なり、是を取りて再拝して退出す、当座の儀式尤も眉目(びもく※名誉)たり、又相撲廿番あり、占手(うらて)供御(くご)なり※1、左右頭人雌雄(しゆう)を決す、両方の介錯確執(かくしゅう)頻(しきり)也、社司(しゃし※神職の行司)是を制す、又、今日の水干を脱ぎて、来集の輩に分かちあた(与)うる事、其の数五月会に倍増す、
御射山七月御狩三ヶ日、五月の如し、但し行列の行粧(※旅装束)は山中の儀式には異なり、先ず大祝并(ならび)に左右の頭人揚装束、其の外は射装束に改めて射馬に乗り替えて打ち立つ、色々の水干・思々(思い思い)の箆(の※矢柄)矢・行縢(むかばき)等也、又、馬場の揚馬金銀の鞍を置き総鞦(しりがい※馬具の一種)をかけたる舎人等乗馬あて引き連れぬ、のり口(くち)(※乗る場所?)と号す、又、倉通(くらとおり)(※神が狩場に渡御する道)の神幸ありと申し伝えたれば、真俗(※習俗・僧と俗人)貴賤を論ぜず此の山に入りて動揺す(※揺れ動く)、大祝至る時を望み見て狩奉行山口を開て、則ち(すなわち※即座に)面々競い争いて左右の旗を守って狩場に出ず、千草の花高くして人馬をかくす(隠す)、纔(僅)かに弓のはず(筈)笠のは(端)など見ゆ、此の時禽獣飛揚(ひよう)駆走して狩人と猥騒(わいそう)(※乱れ騒ぐ)す、伏木・岩石の嶮岨(けんそ)をきら(嫌)わず、数百騎くつばみ(轡・くつわ)を並べて山中も(漏)らさずと云えども、矢に当たるもの両(二)三にすぎず、本誓悲願の至る神託の文※2、古老の説※3すこぶる符号(合)せしむるもの抔(等)、各々御庵にかえりて後、小笠懸・千度詣・宮通(みやかよい※宮詣で)、面々こころごころ(心心※それぞれ)の勤めを至(致)す、さても此の御狩の因縁を尋ぬれば、(中略)
晦日
(みそか)下御
(くだりまし)、早旦四御庵にして神事饗膳例の如し、大祝・神官等着座、先ず御符を両頭
(※右頭・左頭)の代官にくだす、惣じて一年中役人十余輩皆丹誠を
抽(ぬき)んでて(※抜きん出て)、一生の財産をなぐ
(無く)されば、謀反八逆
(はちぎゃく※極めて重い罪)の重科
(じゅうか※思い刑罰)も、頭人・寄子
(よりこ※武士)悉
(ことごと)く武家の免許を蒙
(被・こうぶ)って生涯を全うする事、古今断絶せず、其子孫未だ
(いまだ)あり、神徳の至誠不思議也、又、明年の頭役を差し定めて後、面々に打立ちて山に出ず、槙木
(まき)立てて上矢を射立ててたむけ
(手向)とす、鹿草原
(くさか)にして草鹿
(くさじし※草で作った鹿)を射て各々さと
(里)に帰る、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』〔諏方祭〕
※1全く意味不明でしたが、武井正弘著『年内神事次第旧記』の〔相撲あり〕の注釈に以下のようにありました。
「左右頭から取手が選ばれ相撲二十番が競われたが、これで勝負を判定せず、左右頭人の占手(一番勝負でケリをつける)の相撲で決着を着けた。この後負けた方は罰として供御(貴人をもてなすように、礼を尽くして接待すること)の席を設けた」
※2『神長満実御射山祭祝詞』にもありますが、『年内神事次第旧記』では、
「政所は朽葉(くつは)の元に鹿肩を並べ野沢を渡るとも、居やる山に当てさせ給わず。鹿の子の太腹に矢懸けさせ給え。矢懸の中に柔(にこ)い毛に粗い毛、粗い毛柔い毛選ぶことなく捕らせ給え、畏こみ畏こみぬかつか申す」
と書いています。これは「政所(大祝の事務方)が贄の鹿肩を山の各所に置くが、鹿が居る山は見つからない。選り好みしないので(どんな鹿でも良いから)、何とか鹿を捕らせて欲しい」という“切実な意”なので、いかに鹿を捕ることが難しかったのかがわかります。
※3「押立御狩神事」にある「諏方野の鹿、穴あり」です。「諏訪の鹿は穴が空いているので、矢が素通りしてしまう」というのが“現実”でした。
御射山祭(三日目)'09.8,28
この日の御射山祭は、諏訪大社の祭事表では「御射山社二之祭」と書いています。同じ特殊神事である「御頭祭(酉の祭)」も、前日の「夕祭」と翌日の「二之祭」があります。簡略化されたとはいえ、現在でも三日間連続する祭事は過去の重い伝統を今に留めていると言えるでしょう。
この日は、国常立命社から御霊代を神輿に遷座して本宮に帰ります。初日とは逆になるわけですが、祭りも終わりとあっては、どの本にも2行程度の記述しかありません。
御射山社
神職と役員は手水を使い、一列で社殿へ向かいます。
神職は拝殿内の定位置に座り、神戸区長・大総代・神戸区の総代・巫女、後列に大社の職員と区の当番がその前に参列しました。
通常の神事が終わると御霊代の遷座です。以下の流れは見ていないので想像となりますが、警蹕が流れる中、「覆面(紙マスク)をつけた権宮司が本殿から御霊代を取り出して神輿に納めた」と書いてみました。「お頭をお上げ下さい」で再び社殿を注目すると、祢宜が神輿の扉を閉めていました。
再び手水鉢の横へ戻ります。神事の開始・終了はこの場所が定位置とわかりました。全ての関係者にカワラケが渡され、巫女さんが御神酒を注ぎ終えました。権宮司から神戸区へねぎらいの言葉があり、献杯で全てが終了しました。この後、神輿は大社の車で本宮へ遷座します。
明治初年の御射山祭
帰りに富士見町図書館へ寄りました。『富士見村誌』に「古川安太郎談」として明治初年の御射山祭の記事があったので紹介します。その頃はまだ穂屋を建てて、藩主・家老・大祝・五官の社家が泊まったそうです。
7月26日に神長官守矢氏が登山し、27日には大祝が行列を率いて登山した。その際、伊達(だて)道具即ち槍・鉄砲・長さ一丈もある(御神事の際手を洗うための)長柄杓等をかついできた。大祝は室内には出ずに「祓沢(はれんざわ)」に出て、御射山の大祝の小屋(穂屋)に入って祭事を行った。28日には、御行列は金沢に下って帰られた。その後※、祭は8月27日を中心として行われることとなり穂屋もかけることはなく、(後略)
※明治5年以後、現在の神輿による神幸に代わった。
憑(たのみ・たのめ)の神事
以下は「御射山御狩」の最終段です。
八月一日、本社の祭供を以て、御射山かえ
(帰)り申す、饗膳常のごとし、今日御作田の熟稻
(稲)を奉献す、また、雅楽
(がこう)に仰して童部
(わらんべ)(※神使)を召し集めて、神長大祝の前に進みて御穀を取って、彼の童の口にくぐ
(含)めて
かい※をもって頬を叩きて、仰詞
(おおせごと)あり、又鋤鍬を作りて彼の童部に与え、東作
(とうさく※春の田作り)の業を表す、今夜大小神官大畧
(大略※おおかた)通夜せしむ、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』〔諏方祭〕
※文献により「匙・穎(シャモジ・稲穂)」の解釈があります。
『画詞』には神事の名前が書かれていませんが、これが「憑の神事」です。これをもって御射山御狩神事の全てが終わったことになります。