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葛井神社「御手幣送り神事」 1月1日(12月31日)

葛井神社「御手幣送り」
「快晴無風の御手幣送り神事」17.12.31 

 葛井神社の境内には、茅野市教委が設置した「二つの案内板」があります。

 「諏訪神社祭典古式」によると、十月晦日一年中の神事の幣帛と「机飯一膳御酒御穀」をそえて、雅楽一人にかつがせ、午前0時を期し、御室の「みあかし」と九頭井明神の「みあかし」を合図とし、拝殿の背面から神池に投げ入れる。これが翌朝遠州サナギの池に浮かびあがるという伝説がある。
昭和45年 
 大晦日、前宮において一年中の神事に手向けた幣帛、並びに榊・柳の枝、柏の葉等を御宝殿より取り下げて葛井神社へ運び、寅の刻(午前四時頃)に前宮御室の御燈を合図に葛井の池に投げ入れる。すると卯の刻(午前六時頃)に遠州のさなぎの池に浮かび上がると伝えられている。
平成6年 

 何れも葛井神社の「御手幣送り」を解説した部分ですが、時代や文献の違いから来る相違や気になる表現があります。以下に幾つかの文献を挙げたので、参考にしてください。

古文献にある御手幣送り

 守矢家の古記録『嘉禎神事事書』です。嘉禎4年ですから、1238年の記録です。

晦日、夜丑剋(うしの刻)一ヶ年の中の御幣を神長久須井(葛井)池持向入云、此時まいりあう人は死人のまねをしてうつふし(うつぶせ)にふすと云々、
(かの)御幣則(へいそく)遠江国サナギノ浦にうかぶと云々、仍(よって)此所に大明神を奉崇敬者也(たてまつりあがめうやまうものなり)
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』

 正和3年(1314)の奥書がある『諏方効験』から、一部を載せました。

楠井の池の波の白木綿(しらゆう)かくとみえて、國の堺もとをき(遠き)海の、さなぎの汀(なぎさ)にうかぶなるも、ゆへ(故)ありてぞや覚る、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第二巻』

 武井正弘著『年内神事次第旧記』から転載しました。

十二月晦日(略) 寅時(うたつ)の御左口神之御前にて御明し(※たいまつ)を参らせて、(中略) 火光(ひかり)を葛井へ見すれば、葛井神主(こうぬし)御手幣・御酒・御穀を池に入申す、

 『諏方大明神画詞』には、以下のように書いてあります。

晦日寅時、御手倉送、一年中の神事に手向(たむけ)の幣帛并(ならび)に榊(さかき・やなぎ)の枝、柏の葉等を御宝殿に納めて、是を取り鎮めて、机飯(椀飯)一膳を添えて、雅楽(がこう)一人荷擔(にない)して郡内葛井ノ池に入る、翌朝に遠州サナギノ池に浮かび出ず、村氏(民)是を拝して渇仰(かつごう※深く神を信仰)す、神変奇特、今に至るまで浚(さらい)(遅れ)せざるおや、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』

葛井神社「御手幣送り神事」

 11時半から御手幣送り神事があると聞きました。
葛井神社「御手倉送り神事」  大晦日ですから、どちらかと言えば消極的になる気分が勝ります。しかし、「一度は見学せねば」と、それを振り払うように葛井神社へ向かいました。
 拝殿前には、すでに大勢の氏子が陣取っていました。彼等に遠慮してその後方に立つと、祭壇と控えの座を何度も往復する神職の姿だけしか見えません。

御手倉送り神事  神職は、氏子総代や祭典委員を従えて池畔に立ちました。祝詞の奏上が済むと、行く年を少しでも延ばそうとしているかのようなテンポで太鼓が響く中、新しい年を待ちます。早くも、遠くに近くに花火の轟きが聞こえてきました。役員が117の時報に合わせてカウントダウンする声が小さく聞こえます。

 その瞬間に幣帛の束が投げ入れられました。今日は放射冷却がなかった分だけ暖かいのでしょう。フラッシュやビデオライトの明かりで、池面にモヤが漂っているのが見えました。その中での幻想的な神事も一瞬のことで、ただの見物人(自分)にはまことにあっけない御手幣送りでした。

葛井神社「歳旦祭」
氏子への御祓い

 神職と役員が拝殿に戻ると、引き続いて「歳旦祭」が行われました。この神事も、人垣の最後部では神前まで往復する姿しか見えませんでした。
 最後は、写真にも見える「くす玉割り」でした。伝統ある葛井神社の神事です。派手な演出は程々にしてもらいたいと思いますが、新年のお祝いは世界中で派手に行われていますから、とやかくは言えません。