今年は習焼神社の例祭が土曜日と重なったので、初めてとなる見学に出かけました。
神事前とあって人影もまばらな拝殿内をのぞくと、桟唐戸が開かれているので本殿の正面が見えます。「この機を逃しては」とカメラを向けると、掲額が「野明大明神」であるのに気が付きました。
社務所から合祀殿前の回廊を通って、女性一人を含む神職と氏子総代が拝殿に着座します。左側が習焼神社の神職と氏子総代で、右側が諏訪大社から参向した神職と御頭郷総代と確認できます。諏訪大社の平林宮司はあくまで招待客という立場なのでしょうか、今日は羽織袴でした。
献撰は氏子数人の手渡しで行われ、アンカーは習焼神社の宮司です。例祭の別名が「草餅祭り」とあるように、三升三合の草丸餅が神饌に加わりました。
各種の果物を揃えた三方ですが、一番上のメロンが転び落ちないかと見物人ながらヒヤヒヤしました。しかし、(その点は対策済みなのか)無事、全ての神饌が本殿前の神饌案(お供えを載せる机)に並べられました。
祭主は習焼神社の宮司です。諏訪大社の宮司は「参向」という形なので、持参した注連が張られた唐櫃(からひつ)から取り出した幣帛(へいはく)と幣帛料を載せた三方を供えます。きらびやかに正装した「下諏訪町東山田長持保存会雅楽部」の三人が、笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)の床しいBGMで神事を盛り立てています。
今日、習焼神社の神事を見学していたのは、「お久しぶりです」とここで偶然に会った知人と私の二人だけです。そのため、これだけの社殿と例大祭に応えていない地元氏子の対応に冷たさを感じていました。それとは関係ありませんが、桜は咲いていますが吹きさらしの日陰の境内では花冷えならぬ空腹に伴う腹冷えにフリースのジャケットを着てきてよかったと、自身も寒さを感じていました。
すべてが終わり、社務所からは直会のざわめきが伝わってきます。実は「草モチのお下がり」が頂けるのではないかと(かなり)期待して(ねばって)いました。しかし、声が掛かることはありませんでした。
順番が逆となりますが、二年後の話なので…。また、前回の習焼神社例祭で氏子の参観が無かったことに寂しさを覚えていましたが、こちらがメインだったので納得することとなりました、
習焼神社の例祭に先立ち、習焼神社摂社の流鏑馬社祭がおこなわれます。
10時。小忌衣(おみごろも)を羽織った氏子が、旗(幟)・鏡・薙鎌・弓を捧持して習焼神社境内から県道を挟んだ流鏑馬社へ向かいます。
写真の通り竿が結構長いので「見た目より重い」と声が聞かれ、終点の流鏑馬社では鳥居・境内とも小さいので、中に入れるのに苦労していました。
境内が狭いので、神職や氏子代表が並ぶと余裕が全くありません。神事の邪魔になりたくないので、私は瑞垣のイチイに半ば埋もれながら下枝に足を掛け、カメラを頭上に掲げて撮るというスタイルになりました。
祭主は習焼神社の宮司です。諏訪大社から独立した神社のネットワークがあるのでしょう。“応援”に駆けつけたと思われる見慣れない神職もいます。諏訪大社の平林宮司も参列していますが、今日は“来賓”の立場なので羽織袴姿です。ここでも、習焼神社と同じく、(後で知った一升一合の)草餅が献饌に加わっていました。
習焼神社の宮司が流鏑馬社前の道に立ち、赤い鏑矢をつがえます。北に向かって、上と下へ射る所作をします。次に、掛け声と共に天に一本と地へ一本射ます。役員が矢を拾って神職に手渡すと、向きを南に変えて同じように二本射ました。
この後、習焼神社へ戻り、午後から習焼神社の例祭が行われます。
翌朝の新聞記事には「末社の流鏑馬社では古式祭が行われ、神職が西方の天と地、東方の天と地に計四本の矢を放って邪気を祓い、五穀豊穣を願った」とありました。
実は、流鏑馬社前の道は、(北)北西から(東)南東へ延びています。かつての流鏑馬馬場での神事から東西が基本なのでしょうが、現在の道と住宅事情では不可能でしょう。