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野出神事 2月28日

 野出神事を解説する文として、岩本尚賢著『上社年内祭祀ノ大畧』を転載しました。明治の文献なので「長・次官(現在の宮司・権宮司)」などの見馴れない文字がありますが、この神事の特徴をよく説明しています。

 此の日野出始の式を行うに、先ず本社前宮十間廊等の御装束ありて後、長・次官始め御頭郷の村吏惣代の面々前日より潔斎して十間廊に到着す、此所にて種々の神供を献じて前宮の方に向て神事あり、頭郷の諸人拝礼す、是を俗に御頭郷の御祭始と云う、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 「御頭郷の御祭始」とあるように、野出神事が終わると、この年の御頭郷は3月の一ヶ月間を精進して御頭祭に臨みます。

初めての野出神事参観

 平成20年になって、ようやくこの神事を見学することができました。
 午後1時と聞きましたが、…始まる気配がありません。諏訪各地から集まった諏訪大社大総代は前宮社務所前で待機していますが、神職の姿はありません。寒さのあまり所内で待機でしょうか。さらに、私からは遅刻としか思えない総代や役員も、慌てず騒がずの“三々五々”という集まり方です。今更、「言い違い・聞き違い」を責めても始まりませんが、始まってみれば、開始時間は1時半でした。

神事式次第

 野出神事の流れは、修祓−宮司一拝−献饌−奉幣−祝詞奏上−玉串奉奠−撤饌−宮司一拝、と一般的な神事です。

野出神事「宮司玉串奉奠」

 祭壇は「前宮本殿」が正面となる方向に設えてあります(上写真)。そのため、神饌や幣帛もその方角に置かれ、祝詞奏上や玉串奉奠も御簾が下がった壁に向かって行います。参列者は神職を横に見るという、本宮片拝殿からの参拝に似た形式になります。

野出神事「御頭郷の神職」 玉串奉奠は、諏訪大社宮司(上写真)に続き、「御頭郷にある神社の宮司」二人が行いました。これは「御社宮司降祭」と同じ流れです。
 その後に、「御頭郷地区総代代表」「諏訪大社大総代代表」、地元の「安国寺・高部区長と小町屋の組長」の奉奠と続きました。

 現在の野出神事には主役の「大祝」はいません。そのため、“普通に見れば普通の神事”になっていますから、ビデオカメラ持参で駆けつけても撮影するようなものは何もありません。しかし、玉串奉奠の順番から、「宮司が大祝」「御頭郷にある神社の宮司が神使」「大総代が五官」「地元の区長や組長が雅楽(がこう)」を“演じているように”見えてきます。これは、まさしく「御頭郷の神事」の流れです。
 最後は「宮司に合わせて前宮に向かって拝礼」と声が掛かりましたから、「前宮の御社宮神」に挨拶をしているのは間違いありません。

野出神事と御頭郷

 通常の神事は諏訪大社大総代だけですが、今日は今年の御頭郷である下諏訪・岡谷の頭郷総代や氏子代表が参列しています。

野出神事と御頭郷総代 御柱祭では「下社」を担当する郷ですから、ここ上社では見慣れないハッピが新鮮です。因みに赤い「柴宮」は岡谷市長地(おさち)の柴宮(東堀正八幡宮)です。他にも2名の背中に下社の神紋「明神梶」が見えます。入りきれずに廊内からあぶれた恰好の役員ですが、日溜まりとあって、左端の男性には今日は特等席になりました。

野出神事の神饌「鹿肉」神饌 神饌の一つ「鹿肉」です。かつての諏訪神社上社では「鹿がなければ神事はするな」というほど重要な神饌ですが、今は冷凍したブロックが使われています。


野出神事の神饌前宮二十の御左口神 通常の神事には使われない「玉子と鏡餅」があるのに気が付きました。玉子は、短絡的ですが「御室のヘビ」を連想してしまいます。数えると20個あり「前宮二十の御左口神」と一致してしまいました。諏訪大社も“芸が細かい”と感心しましたが、残念ながら「一皿に並ぶのが二十個前後」ということでした。

野出神事の御手幣和茅の御手幣 最上部の写真で「宮司の前に置かれている御手幣(幣帛)」です。撮り溜めた神事の写真を改めて見直すと、「御射山社祭・柏手社祭・宝殿煤払」で同じものが使われていました。
 後日、武井正弘著『年内神事次第旧記』を拾い読みしていたら、補注の「差挟御手幣」に「茅(すすき)の茎に方二寸くらいの白紙を挟んだ御手幣」とあります。さらに、「和茅の御手幣」には「前出の差挟幣八本を一束に合わしたもの」とあり、これだ、と確認できました。補注から逆に本文を追うという「訓読文」では、「さしはさみのみてぐら」「あえちの…」と読み方がわかりました。
 現在の神事に『神長官守矢文書』を持ち出して「名前が、本数が」と言うのも無理がありますが、私自身としては面白い知識を得ました。

鹿の敷き皮鹿の敷皮 宮司が座っていた鹿皮の敷物です。御頭祭でも使われますが、古文献を読むと、各所に「大祝は鹿の夏毛皮の褥(しとね)に座る」という記述が見られます。

江戸時代の野出神事

 中洲公民館『中洲村史』で、文化2年(1805)の旧上金子村『御頭社方贈物帳』を解説しています。ここから、当時の「野位出し(野出)」の様子を転載しました。

 この日の神事には本宮から前宮へ行列が行って行われた。道具や御馳走などの運び物も多く、上金子本村から十九・五人、枝村から二十二人計四十一・五人が使役に出た程の大祭であった。
 この日の献上は、殿様へ酒一具・御膳・御隠居様へ一具と御膳、大祝様と若旦那にもそれぞれ殿様同様に、また大祝の仲間(ちゅうげん)、五官の小者、両奉行、宝剣持の小者、上介・下助などには各半具ずつ届けた。
 当日の献上品は大したもので、神に捧げたり、参列者が神と伴に御馳走になったもので、土器(かわらけ)も二〇〇個も用意されていた。献立は鹿肉・猪皮・鯉・大鮒・中鮒・ムロ・アラメ・塩鱈・鰤・鮪・鯖・鯣(するめ)・雄雉子などであった。更に野出祭が無事に済んで御馳走として、大祝・土橋・神長官と取次・両奉行・丹後・鹿人・頭殿へ酒一斗七升余と鯖二〇本を届けている。

 海産物は江戸から持ち込んだのでしょう。まことに盛大な祭りであったことが想像できます。

本宮荒玉社祭 '09.2.28

荒玉社祭 H21.2.28 野出神事と同日に「荒玉社祭」が行われます。平成21年は、午前10時に神事が始まる本宮の荒玉社へ向かいました。ところが、その祠が視野に入る前に柏手を打つ音が…。神事はすでに終わりかけていました。間に合わないと見て、斉田の畦からズームを最大にして撮ったのが上写真です。権宮司を含む3人の神職が執り行う簡素な祭りでした。