『諏訪大社祭事表』に載る、野出神事と御頭祭の日程です。
野出神事は2月28日ですが、それに先立って(前宮ではなく)本宮の「荒玉社祭」が行われています。
私は「ある疑問」を長らく抱いていたので、かつては旧暦の1月28日だった野出神事と同じ日に、荒玉社祭が行われていたのかを確認してみました。
ところが、幾つかの古文献に目を通してみましたが、「荒玉」に関する記述は一切ありません。
「なぜなのか」と調べてみると、明治期に太陽暦を導入したために、一カ月遅れに変更された(現在の)野出神事ですが、荒玉社祭は旧規(2月晦日)のままなので“ミスマッチ”を起こしていることがわかりました。
以下は、宮坂光昭著『諏訪大社の御柱と年中行事』から「荒玉社神事と野出神事」の一部を抜粋したものです。これが、現在広く紹介されている野出神事の解説です。
ここでは「神使六人」と書いているので、時代は中世ということになります。しかし、明治初期までは、旧暦の1月28日に野出神事、(精進潔斎の一ヶ月を経た)2月晦日に荒玉神事が行われましたから、両神事を混同していることになります。
古文献から、野出神事は、戦国の世で「六人の神使」体勢が崩壊したために、それに代わるものとして編み出されたものと理解できます。言わば、諏訪郡内で完結する御頭郷の前身というようなものでしょうか。それを、おこがましくも、図書館で閲覧できる古文献を挙げてスジを正してみました。
中世の文献『年内神事次第旧記』や『諏方大明神画詞』では「荒玉神事・神使出仕」を書いていますが、「野出神事」の文字は見られません。
一、(2月)晦日、荒玉御神事、神使殿御出仕始、割柳四十を一束つヽにして(※楊柳の御手幣)、宮(※本宮)の舞台にて四つヽ持参らせて、申立、
一、(中略) 御正面にて外縣介の山之御手幣の数、ちかへよまへと、かしこみもぬかつか申。御正面にても又御宝殿にても、御手幣の数を参らせられへく候、
二月晦日、荒玉の社の神事、当年の神使六人上搦l人下搏人童子直垂(ひたたれ)を着して出仕、饗膳あり、頭人の経営也、
是則ち正月一日の御占に任て(まけて※任命する)氏人を差し定めて、其の子孫の中に婚姻未犯の童男を立て、来月初午以前三十ヶ日の日限を點じて(てんじて※付けて)面々新造の假(仮)屋をかまえて精進を初む、(中略)
三月以降大祝の左右に随いて、明年正月一日に至るまで神事を取(執)り行う、当社末社の内若宮・兒(児)宮まします、神代童躰(体)のゆえある事等なり、
何か、“公式見解”の「野出神事」が謎めいてきました。
「野出」は、戦国時代(永禄8年)の文献から現れ始めます。諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』・長野県『長野県史 近世史料編』・中洲公民館刊『中洲村史』から関連するものをピックアップしてみました。
このように、「野出神事は1月28日」に行われています。さらに、『再興次第』では「野出神事の一ヶ月後が荒玉神事」とあり、『書状』でも「野出神事の二週間後に精進始め」と書いているので、両神事は「別日の別神事」であることがわかります。
『中洲村史』から「上金子村」・宮地直一著『諏訪史第二巻後編』から「小坂村」を、野出神事の前後だけを抜き書きしました。
上金子村 文化2年(1805) 1月11 境注連(さかいじめ)をする 22 御頭屋作り 25 御神屋作り 28 野位出し 2月 3 お湯立て 5 御贄掛 11 三日精進始め申し込み |
小坂村 宝暦4年(1754) 1月19 神長官へ御神様又申入 21 御頭屋落成 24 野出神事申込 28 野出し神事 2月 1 神長官へ神様願申入 5 御贄掛 6 神長官へ御精進申入 |
「御頭屋(精進屋)を造った後・精進始め前」の「野出」ですから、野出は精進を終えて御頭屋から出ることではなく、「野出神事の後に精進に入る」ことを意味します。この流れでは「翌二月」が『画詞』にある「三月初午以前三十ヶ日の潔斎」に当てはまり、「二月晦日、神使殿出仕始め」に繋がります。
神事の記録ではありませんが、『諏訪史料叢書』から、解題に「寛政頃の人と記」とある『諏方誌』を転載しました。
一、正月元旦、…小弓を以てこれを射て贄とす、其矢の向く處を以て今年御頭の郷を定む、これを蛙狩と云、…、
一、正月廿八日、大祝其所に赴く、これを野出と云、馬にて直路を走らせ前駆の者大なる柄杓を持つ如何なる遺事なるや詳ならず、
ここでは「大祝が“其所”に行くことを野出」と書いています。文脈からは「御頭郷の精進屋に行く」と読めますが、「直路(すぐじ)を馬で」とあるので、これは「前宮」とすべきでしょう。しかし、どちらの解釈にしても、元旦の蛙狩と御占神事を混同していますから正確さを欠きます。因みに、「大なる柄杓」とは大祝の手洗い用「長柄のヒシャク」のことで、御射山御狩神事などの行列には必ず登場します。
一、正月廿八日
野出之神事、御頭郷村々此時より勤始る、前宮にて神事
一、二月御頭精進入
三月酉之祭より三十日前之事
これは、解題に「文政2年の春撰述」とある、乾水房素雪が書いた『信濃国昔姿』です。「野出神事を終えてから精進に入る」とあります。
『茅野市史』にも、「文出村の御頭」に関連した「日記」が載っています。「頭首」は小坂村の祭事責任者、丹後・鹿人(ろくびと)は諏訪神社上社の料理人です。
1月24日「矢ヶ崎村へ参る、頭首殿・丹後殿・鹿人殿、野位出し精進始めの支度に参り、今日より居続け…」とある。
ここでは、「野出神事」の4日前から準備に入ったことがわかります。
明治8年頃に編纂を始めたという、権宮司 八代駒雄・祢宜 延川和彦編纂『諏訪神社祭典古式』が『諏訪史料叢書』にあります。内容は、明治初年(現行)の神事に「古式」を並記したものです。
ここまでに長々と挙げてきた文献を踏まえると、この『諏訪神社祭典古式』が、中世の『画詞』と『旧記』にある「荒玉神事」を、近世の「野出神事」と混同した“代表的な文献”であることがわかります。お節介にも、著者に断りなく校正してみました。
正月廿八日 野出神事 一日乗出以前は正月廿五日以降二月初午以前の例なり 神使殿出仕始也、※1
當年の神使六人 ※2
二月晦日 荒玉神事
※1※2は『旧記』と『画詞』の「荒玉御神事・荒玉の社の神事」の文言ですから、以下のように「二月晦日 荒玉神事」の後に続かなければなりません。
正月廿八日 野出神事 一日乗出以前は正月廿五日以降二月初午以前の例なり
二月晦日 荒玉神事
神使殿出仕也、
當年の神使六人
古式を現行の神事に“並記”という編纂ですから、(単純に)書き写す場所を間違ったのでしょう。
以上のことから、太陽暦の導入で「2月28日に変更された野出神事」と、『画詞』と『旧記』にある(なぜか変更されない)「中世の二月晦日・荒玉神事・神使出仕始め」が同じ日になってしまったので、明治後年から現在に至るまで両神事が混同されて“広く出回っている”ことがよくわかります。
明治35年に出版された、栗田寛閲・守矢実久編纂『諏訪神社略縁起』から転載しました。栗田さんは文学博士で守矢さんは神長官の直系ですから、この書には重みがあります。
一、野出神事
正月廿八日神官前宮 宮川村の内小町屋に上社を距る東へ八丁余 十間廊へ出張祭典を執行す、即(すなわち)御狩始の式なり、当日神事は頭郷の役たり、
ここでは「御狩始」と言い切っていますから、神事を司る最高責任者はそのように意識していたことになります。また、伊藤富雄さんも「御狩始」として、『伊藤富雄著作集(第二巻)』の中で「野出は狩猟語で、豊猟祈願の神事と断定するものである」と4ページに渡って考察しています。
神長官と史家に対して、私が「野出神事に関する古文献を眺めたが、“狩猟”の匂いさえも感じない」と反論してみても、名称としての「野出」を説明することはできません。
諏訪市史編纂委員会『諏訪市史 上巻』〔上社の年中神事・行事〕は、
と書き、『同 中巻』〔諏訪神社〕の[野出神事]では、
と、やはり両神事を混同(または混淆)しています。それでも、文末で、
と、“野出を説明する言葉”としてはうまくまとめています。1月28日はまだ“年の初め月”ですから、野外に出る(前宮へ行く)のを「野出」としてもいいかもしれません。
安永七年(1778)とある『諏訪上社神事次第大概』から、「野出」の文字はありませんが、それを記述している箇所を抜粋しました。
ここでは「精進初(始め)の神事」と、やや具体的に書いています。
宮地直一著『諏訪史第二巻後編』から、〔荒玉社神事(荒玉神事)附野出神事〕の一部を転載しました。
ここには、「本義(野出神事)は、奉仕始めのためにするもの」と書いています。
再び『上社年内祭祀ノ大畧』を取り上げました。著者の岩本尚賢氏は、明治27年に諏訪神社の宮司に就任しています。
この一文も、現在の野出神事を大変わかりやすく説明しています。これで、「野出とは何か」がわかったのも同然となりました。
御頭祭は明治初年に3月10日と決められましたが、(季節に合わず)明治9年に一ヶ月遅れの4月15日に固定されました。一方の野出神事は明治42年になってから2月28日と変更されたので、両神事は「旧儀より一ヶ月遅れ」と揃いました。これで、荒玉社祭も一ヵ月ずらして3月晦日とすれば、すべての神事が整合しますが…。
この「3月晦日」を改めて注目してみたら、4月15日の御頭祭当日に行われる「前宮荒玉社祭」が“その日”に相当しているのでは、と気が付きました。一連の神事の煩雑さを避けるために同日に統廃合した可能性があります。こう考えると、明治期以降に生じた様々な矛盾や混乱を上手にまとめたのが、現行の野出神事から御頭祭に至る「諏訪大社の祭事」ということになります。
まとめとして、現在の神事の流れを振り返ると、御頭郷は2月下旬に行われる「御社宮司降祭と境締め(前出の境注連)」を済ませてから、初めて諏訪大社の神事─2月28日の「野出神事」に臨み、翌月3月の一ヶ月(名目上の精進期間)を経て4月の御頭祭に参列する流れがよく見えてきます。また、野出が「御頭郷始め」と言われるのもよく理解できます。
最後に、「野出」が見られる最古の書『再興次第』の一部を、我流の読み下しで紹介します。
一、正月廿八日、野出の神事。往古は諏訪郡の頭人相務めるといえども過分の費用弁(わきま)え難(がた)し。故に三十余年中絶。但し二十箇年以前の比歟(比興※例え)、諏訪刑部大輔頼重この祭りを執行しこの由を言上。詮(せん)す所この例に攀じ(よじ※すがり)、来年丙寅よりは高島城主これを勤めるべし。然(しかれば)則ち十貫文毎年下知(げち)を以て神事勤人へこれを渡すべし。彼(か)の祭前々は如何様(いかさま)の儀式にあると言えども、向後(こうご※今後)は且(しばらく)禴祭(やくさい※簡素な祭り)を以て、只(ただ)如在(にょざい※慎み畏まる)の志を専すべしものなり。
文中に、“人ごと”のように「二十箇年以前」と書いてあります。この下知状が出された年の23年前は「諏訪頼重(諏訪刑部大輔頼重)」が自刃した年ですから、「武田信玄が彼を殺したので旧規の野出神事が完全に途絶えた」とも言い換えられるでしょうか。すでに諏訪総領家の大祝はいませんから、結局は武田信玄が派遣した高島城主が神事を行うことになります。
世は戦国時代ですから、下知状にある予算「十貫文」が本当に渡されたのか、また、神事が実際に再興されたのかは疑問です。武田家は間もなくして滅びたので、『再興次第』は古文書として残りましたが、神事の詳細は不明のままです。ここでは、「野出神事が廃絶した十年後に、諏訪頼重が神事を遂行した例があった」としかわかりません。
ここまで、自分でも予想できなかった量を書き連ねてきました。その結果、野出神事は、諏訪神社上社の祭祀のすべてを諏訪郡内で奉仕するようになってからの神事ということになりました。その時期は諏訪神社が急速に衰退した戦国時代以降ということになりますから、『画詞』や『旧記』に載っていない不思議さが理解できます。現在の御柱祭と同じようなシステムで運営されたのでしょう。