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野焼神事(辰日神事) 25.5.4

習焼神社例祭 中世の諏訪神社上社では、3月の辰の日に「野焼神事」を行いました。現在は、一ヵ月遅れとなった御頭祭に合わせて、その一週間後に当たる4月22日に「習焼神社の例祭に参向」という形で行われています。

習焼神社は、古くは「野焼社・野炎社・野明社」などと呼ばれた。

 八ヶ岳中信高原国定公園である霧ヶ峰では、毎年4月の下旬に「山焼き」が行われます。今年も27日に行われましたが、強風にあおられて飛び火し、山火事となって(新聞記事では)草原154haが焼けてしまいました。
 この報道がきっかけとなり、長らく疑問に思っていた「野焼神事」を“文字で表して”みようと思い立ちました。その疑問とは、「空気が乾燥する春先に野焼きをしたのか」というものです。繰り替えがきかない「辰日」ですから、強風の日に当たれば山火事にも発展しかねません。野焼きの真似事(神事)をしただけとも考えられますが、数ある歴史書は「火を着けながら野焼社へ向かった」というニュアンスで書いています。

野焼神事

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』集録の『諏方大明神画詞』から、関連する記述を転載しました。

(三月) 辰日、先(まず)、禰宜送(ねぎおくり)の儀あり。禰宜の私宅にして饗膳常の如し。(中略) 三献の後打立て野焼に趣く、大祝神官の外、氏人水干本人数を卒して、大宮の前をへて北の鳥居の外、一妙(いちひょう)山の鼻より、野火を放て野焼の社に至る。御子村小笠懸あり。(中略) 帰路万歳をうたう。次に馬を馳て時のこえをあぐ。戦場得利の礼を表するおや。

 一般的に「辰日神事」と呼ばれる〔段〕です。ここでは「野火を放(はなち)て」と書いていますから、「(野焼きをするために)火をつけて」が通説となっています。

(四月) 廿七日、矢崎(やがさき)祭。饗膳已下ととのうりて後、野火をあく(上ぐ)。煙を見て各大年宮に詣。(後略)

 現在では御座石神社の例祭に当たる神事の記述ですが、同じ「野火」を「あく(上げる)」と書いています。そのため、「野火は狼煙と同意語ではないか」という考えを持ちました。

 武居正弘著『年内神事次第旧記』から、「辰日神事・野焼神事」を抜粋しました。『画詞』とはほぼ同時代の書物です。

一、辰日は、祢宜殿家御神事、(中略) 其後、内県神使殿は船戸湛に烽火を上て、野炎(習焼神社)へ御付(着)給。大県・外県は湯の上に烽火を上て、大県神使殿、真志野(まじの)の神主家へ御付給。神長殿同神主の設け、肴三組。(中略) 

一、(中略) 例式神事過て、外県御宝神使殿、馬場へ入せ給、廿番笠懸過て御帰り、神歌・田を捏ねる。大熊(おぐま)にて馬懸給、矢立木にて矢射給。

 ここでは、「野火をつけて」はなく「烽火を上げて」とあります。野焼きをしたのではなく、これから行く野焼社と真志野神主宅に向けて、「出発した」ことを知らせるために狼煙を上げたと解釈できます。

「野焼きはなかった…」

 『画詞』は、都人も読んだ言わば“公文書(絵物語)”です。『旧記』は神長官家の“私文書(神事の実務書)”ですから、両書のジャンルはまったく異なります。また、標準語と方言(諏訪弁)の違いもある中で「野焼きはしなかった」と仮定してみました。『画詞』に出る「(山野の枯草を焼く)野焼」は、“野焼”社のイメージに負うところが大きいと考えたからです。
 これに、以前より目を留めていた「前宮にある舟湛」を、野焼神事に絡めて“活用”することにしました。

古絵図で検証

 中世と江戸時代とは大きな隔たりがありますが、諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』から、「安国寺村」と「大熊村」の一部を並べてみました。延宝7年(1679)に編纂された絵図ですから、上が北とは限りません。

辰日神事古図 まずは、前宮が描かれている左図を御覧ください。ここに「舟タゝイ(舟湛)」と書いてあります。場所は、現在の「所政社」から峯湛に続く尾根上です。これが、『旧記』に出る「船戸湛」ではないかと考えました。
 嘉禎の『祝詞段』も、前宮周辺の神として「磯ソナラヘ(磯並)…柏手・ミネタタイ(峯湛)・フナタタイ(舟湛)・マヨミタタイ(檀湛)…」を挙げています。ただし、(私には)この場所になぜ「舟」なのかは説明できません。

 解説本には船戸湛の推定地が幾つか挙がっていますが、私には前宮・本宮からは離れ過ぎているように思えます。というのも、狼煙を上げるのは「合図をすること」なので、出発・通過などのタイミングがわかる(見える)場所が必須となります。野焼に先だって神事が行われる(当時の)祢宜太夫邸は下馬橋上部の辺りとされていますから、この尾根上からは出発する一行がよく見えます。
 絵図にはありませんが、枠上の直近に「峯タゝイ」があります。現地にある安国寺史友会の案内板には

…この山を「火とぼし山」と呼び…中世の御狩神事「矢ヶ崎まつり」のノロシ台にも使われている。…

とあり、『諏訪郡諸村舊蹟年代記』の「高部村」には

子安宮之上尾根峯湛大明神火焼山と云…

という記述が見られます。

辰日神事古図 一方の『画詞』にある「北の鳥居」は、『造営帳』などに記述がある「北方大鳥居(一之鳥居)」とすることができます。しかし、「大宮(上社本宮)を経て」の“経て”をある程度の時間の経過を表現したとすれば、絵図にある最北の赤い鳥居「中門大鳥居(五之鳥居)」がふさわしいものとなります。一之鳥居の近くには○◯山と言えるような特徴のある山が見あたらないからです。因みに、現在では、「一妙山」がどの山を指すのかはわかっていません。

 また、この下方に二つの池があり「出」と書いてあります。旧神宮寺村の字(あざな)を調べると、県営住宅湖南団地の東側、絵図では「大天白」の上(杜)辺りに「田・火打田」が並んでいます。以下に国土交通省『国土画像情報(1947.10.2)』を用意し、字などを書き込みました。

辰日神事古図 「一妙山の鼻(『画詞』)・の上(『旧記』)」の二つを突き合わせると、(火打ち石から)道沿いの平地「火打田」附近で狼煙を上げたことが推測できます。
 この場所から習焼神社までは見通しが利くので、山で上げる必要性はありません。繰り返しになりますが、狼煙を上げるタイミングは対象物が目視できる場所に限られます。その点、神原から真志野へ向かう道筋にある二つの地点は最適の場所と言えます。
 以上、中世・江戸時代・現代と時代が大きく異なる事物ですが、「野火は狼煙と同意語」としてみました。しかし、(野焼き・山焼きを連想させる)野焼社がなぜ「野焼・野炎」という(変な)名前なのかはわかりません。

野明神社

野明大明神(習焼神社) 例祭時に撮った習焼神社本殿です。社殿額には「野明大明神」と書いてあります。拝殿前に立てられた大幟は「野明大神」で、旗や弓と共に並べられた鎌(薙鎌)にも「野明大明神」が刻まれています。長野県神社庁を含む“外部”では「習焼神社」ですが、地元では未だに「野明」を掲げていることがわかります。
 事物に残る年号からは「野焼→野明→習焼」の順となりますが、習焼神社の住所は字(あざ)「野明沢」で、神社脇を流れる川も「野明沢川」です。そのため、(地元では)神社の創立期から「野明」であったとすることができます。この線で詰めると野焼きのイメージが払拭されるので、(我田引水ながら)「野焼きはしなかった」と語気を強めることができます。

習焼神社の祭神は「風神」

 寛政年間に書かれた著者不明の『諏訪誌』から、「諏方神事の部」の一部を転載しました。ここに出る「風穴」は、習焼神社背後の山にある風穴のことです。

一、(前略) 昔風穴山に社を建てこれを祭る風祝と云うもの有りて其の祭りを行う、穴に蓋して祝詞し当年暴風を封じ籠(こめ)て農桑の豊沃を祈る、後に風間荘司と云うもの有り、これ風祝の事なり、風穴山は真志野村龍雲寺これなり、今に風穴とて存せり、昔風を封じこめたりし社なり、(後略)

 幕末に書かれた松澤義章著『顯幽本記』にも、習焼神社と風穴を関連付けた文があります。

真志野村ののあけ(野明)澤又のやけ(野焼)澤など世俗(ヨヒト)のいへる地を古はのわき澤といひしをいつしかより訛りて爾(サ)はいえるなるべし。其はのわきといふは風の一(マタノ)名にて此里の山なる風穴に對(ムガヘ)たる名と聞えたり。若(もし)さもあらば此地にます御神は野別神と稱(となえ)奉りて即風伯(カゼノカミ)に坐なるべし。(後略)

 江戸時代の学者は「習焼神社の祭神を風神」と想定しています。これを中世の神事に振り向ければ、今年の豊作を予祝する一連の「春祭り(酉の祭など)」の終盤に、習焼神社へ「風鎮め」の神事を行うために参向するのは理に叶っています。しかし、龍雲寺に「風穴山」の山号はあっても、習焼神社には風にまつわるものは何も残っていません。

習焼神社の祭具(風切り鎌か) と、ここで閃きました。摂社流鏑馬社の例祭に用いる(前述の)鎌は、薙鎌の一種ではなく「風切り鎌」そのものということを…。
 この鎌には納主名と「元治元年」の銘があります。もう少しで明治維新という時代の奉納品ですが、習焼神社を「風鎮めの神」として納めたのは間違いありません。

「焼狩」と「野火を着けて焼く」

 (“諏訪史の大御所”に影響されたくなかったので)ここまで書き上げてから、『諏訪史第二巻後編』を読んでみました。

野焼を以て焼狩の意としなければならぬ。焼狩とは、山野の草木に火を放って禽獣を駆出し、仍って之を狩立つるをいい、…

 著者の宮地直一さんは、各説を挙げて「(焼狩を)妥当とすべきように考えらるる」とまとめていました。
 「“その手”があったか!!」というのが第一印象ですが、自説を固持して、狼煙を妥当とすべきとしました。

 守矢家諸記録類『嘉禎神事事書』に、以下の記述を見つけ(てしまい)ました。

辰日 野焼禰宜送リ 野焼御神事小笠懸有之、野火ヲツケテ焼宮小井河御ニエ已下調進之
諏訪教育会『諏訪史料叢書』

 文脈(意味)が通らないので、「之」は「之(この)野焼…」とし、「小井河」は岡谷市の「小井川」なので、「」は「」の間違い(誤植)としました。「下宮(下社)の小井川郷が御贄を調達する」という意味でしょう。
 “修正”の説明で前置きが長くなりましたが、ここでは「野火を着けて焼く」と書いています。やはり、「定説には素直に従え」ということでしょうか。

野焼大明神

野焼社古図 『手元絵図』から現在の習焼神社である「野焼大明神」の周辺を転載しました。上部の道に「御蔵(郷蔵)」があるので、当時は上が大道(幹線)となります。初めて習焼神社を参拝した頃は「天井水路」脇に絵図の「堤」が遊水池跡としてありましたが、現在は天井水路が取り壊されたために当時の景観は残っていません。
 下方にある「馬場」で、『画詞・旧記』に出る笠懸が行われたのでしょう。現在の流鏑馬社辺りと言われています。