■ 『年内神事次第旧記』にある「野焼神事」の内容に思い違いがあったので、少し書き直してみました。
中世の諏訪神社上社では、3月の辰の日に、「野火を放つ」という野焼神事が行われました。現在は、ひと月遅れとなった御頭祭に合わせ、その一週間後に当たる4月22日に、「習焼神社の例祭に参向」という形で行われています。
八ヶ岳中信高原国定公園である霧ヶ峰では、毎年4月の下旬に「山焼き」が行われます。今年も27日に行われましたが、強風にあおられて山火事となり、154haもの草原が焼けてしまいました。
その報道がきっかけとなり、「果たして、山火事にも広がりかねない野焼をやったのだろうか」という疑問が湧きました。数ある歴史書は「火を着けながら野焼社へ向かった」と書いていますが…。
『諏方大明神画詞』から、〔辰日神事〕の段を転載しました。
ここでは「野火を放(はなち)て」と書いていますから、「野に火を放って習焼神社神社へ向かった」ことになります。
次は、現在の御座石神社例祭に当たる「矢崎祭」の段です。
ここでは、同じ「野火」を「あく(上げる)」と書いています。そのため、「野火は狼煙(のろし)と同意語ではないか」という考えを持ちました。
武居正弘著『年内神事次第旧記』から、「辰日神事・野焼神事」の翻刻を抜粋しました。『画詞』とは、ほぼ同時代の書物です。
一、辰日は、祢宜殿家御神事、(中略) 其後、内県神使殿は船戸湛に烽火を上て、野炎(習焼神社)へ御付(着)給。大県・外県は湯の上に烽火を上て、大県神使殿、真志野(まじの)の神主家へ御付給。神長殿同神主の設け、肴三組。(中略)
一、(中略) 例式神事過て、外県御宝神使殿、馬場へ入せ給、廿番笠懸過て御帰り、神歌・田を捏ねる。大熊(おぐま)にて馬懸給、矢立木にて矢射給。
ここでは、二組に別れた神使(の行列)それぞれが、「船戸湛」と「湯の上」の二ヶ所で「烽火(以下狼煙)を上げた」と書いています。「野火を放ち」ではないので、「野焼きはなかった」可能性が高まります。
『画詞』には神使の記述はなく、『旧記』は大祝の存在をまったく無視した内容です。「両書の違いがよくわかる」というより、『画詞』は都人向けの“絵物語”で、『旧記』は神長官家の“神事の実務書”です。そのため、『旧記』を基本にすると、「『画詞』に出る“(山野の枯草を焼く)野焼”は、“野焼”社のイメージに負うところが大きい」とする考えが浮上してきます。
つまり、「野焼に趣く」は「野焼(社)に趣(赴)く」で、(編集者が付けた句読点を一つずらして)「山の鼻より野火(烽火)を放(上)て、野焼の社に至る」と読めば、「野焼きはなかった(野焼をする必然性がない)」ことになります。
これに、以前より目を留めていた「前宮にある舟湛」を、野焼神事に絡めて“活用”することにしました。
中世と江戸時代とは大きな隔たりがありますが、諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』から、「安国寺村」と「大熊村」の一部を並べてみました。延宝7年(1679)に編纂された絵図ですから、上が北とは限りません。
まずは、前宮が描かれている左図を御覧ください。ここに「舟タゝイ(舟湛)」と書いてあります。場所は、現在の「所政社」から峯湛に続く尾根上です。これが、『旧記』に出る「船戸湛」ではないかと考えました。
嘉禎の『祝詞段』も、前宮周辺の神として「磯ソナラヘ(磯並)…柏手・ミネタタイ(峯湛)・フナタタイ(舟湛)・マヨミタタイ(檀湛)…」を挙げています。
絵図の上枠外には「峯タゝイ」があり、現地にある安国寺史友会の案内板には
と書かれ、前出『諏方大明神画詞』〔矢崎祭〕の「野火をあぐ」を指していることがわかります。また、『諏訪郡諸村並舊蹟年代記』の〔高部村〕には
という記述も見られます。
『年内神事次第旧記』に出る船戸湛は、脚注では「宮川左岸も宮田渡近辺を指すという」とあります。しかし、習焼神社への道からは離れすぎているので、各種文献に「火とぼし・火焼け」と名が付く尾根を狼煙台の第一候補に挙げることができます。現在は見通しが利きませんが、内県に向けて上げる場所として最適と思えます。「御室のみあかし(御灯)」も、ここから行ったことが考えられます。
『画詞』にある「北の鳥居」は、『造営帳』などに記述がある「北方大鳥居(一之鳥居)」とすることができます。しかし、「大宮(上社本宮)を経て」という記述からは、本宮の最北にある、絵図では赤い鳥居「五之鳥居」がふさわしいものとなります。
それを確定する「鳥居の外・一妙山」ですが、現在も、どの山を指しているのかわかっていません。そのため、ここでは「北の鳥居=五之鳥居」としました。
また、この下方に二つの池があり「出湯」と書いてあります。旧神宮寺村の字(あざな)を調べると、県営住宅湖南団地の東側、絵図では「大天白」の上(杜)辺りに「湯田・火打田」が並んでいます。以下に国土交通省『国土画像情報(1947.10.2)』を用意し、字などを書き込みました。
『画詞』の「一妙山の鼻(先端)」と『旧記』の「湯の上」に、二つの字「湯田・火打田」」を突き合わせると、権現沢に分断される尾根の麓(鼻)が相当します。
この場所から、大県・外県廻湛神事の道順でもある習焼神社方面に向けて狼煙を上げたことになります。大県・外県の神使としては、納得できる場所です。
以上、中世から現代までと時代が大きく異なる事物を挙げ、「野火は狼煙と同意語」とし、「野焼きはなかった」と結論づけしてみました。しかし、現在の習焼神社の古名が、なぜ「野焼社・野炎社」という(変な)名前なのかはわかりません。
例祭時に撮った習焼神社本殿です。社殿額には「野明大明神」と書いてあります。拝殿前に立てられた大幟は「野明大神」で、旗や弓と共に並べられた鎌(薙鎌)にも「野明大明神」が刻まれています。長野県神社庁を含む“外部”では「習焼神社」ですが、地元では未だに「野明」を掲げていることがわかります。
事物に残る年号からは「野焼→野明→習焼」の順となりますが、習焼神社の住所は字(あざ)「野明沢」で、神社脇を流れる川も「野明沢川」です。そのため、(地元では)神社の創立期から「野明」であったとすることができます。この線で詰めると野焼きのイメージが払拭されるので、(我田引水ながら)「野焼きはしなかった」と語気を強めることができます。
寛政年間に書かれた著者不明の『諏訪誌』から、「諏方神事の部」の一部を転載しました。ここに出る「風穴」は、習焼神社背後の山にある風穴のことです。
一、(前略) 昔風穴山に社を建てこれを祭る風祝と云うもの有りて其の祭りを行う、穴に蓋して祝詞し当年暴風を封じ籠(こめ)て農桑の豊沃を祈る、後に風間荘司と云うもの有り、これ風祝の事なり、風穴山は真志野村龍雲寺これなり、今に風穴とて存せり、昔風を封じこめたりし社なり、(後略)
幕末に書かれた松澤義章著『顯幽本記』にも、習焼神社と風穴を関連付けた文があります。
江戸時代の学者は「習焼神社の祭神を風神」と想定しています。これを中世の神事に振り向ければ、今年の豊作を予祝する一連の「春祭り(酉の祭など)」の終盤に、習焼神社へ「風鎮め」の神事を行うために参向するのは理に叶っています。しかし、龍雲寺に「風穴山」の山号はあっても、習焼神社には風にまつわるものは何も残っていません。
と、ここで閃きました。摂社流鏑馬社の例祭に用いる(前述の)鎌は、薙鎌の一種ではなく「風切り鎌」そのものということを…。
この鎌には納主名と「元治元年」の銘があります。もう少しで明治維新という時代の奉納品ですが、習焼神社を「風鎮めの神」として納めたのは間違いありません。
(“諏訪史の大御所”に影響されたくなかったので)ここまで書き上げてから、『諏訪史第二巻後編』を読んでみました。
著者の宮地直一さんは、各説を挙げて「(焼狩を)妥当とすべきように考えらるる」とまとめていました。
「“その手”があったか!!」というのが第一印象ですが、自説を固持して、狼煙を妥当とすべきとしました。
守矢家諸記録類『嘉禎神事事書』に、以下の記述を見つけ(てしまい)ました。
「之」では意味が通らないので、脱字があったと考え「有之(これあり)」としました。次の「ト」ですが、「小井河」は岡谷市の「小井川」なので、「ト」は「下」の間違いでしょう。「下宮(下社)の小井川郷が御贄以下を調達する」という意味になります。いずれも、誤植が考えられます。
“修正経緯”という前置きが長くなりましたが、ここでは「野火を着けて焼く」と書いています。やはり、「定説には素直に従え」ということでしょうか。それでも、贄の鹿を野火(焚き火)で焼いたと読むこともできます。それは苦しい解釈として、「習焼神社で野焼神事を行った」とすれば読者の方は納得できるでしょうか。
『手元絵図』から現在の習焼神社である「野焼大明神」の周辺を転載しました。上部の道に「御蔵(郷蔵)」があるので、当時は上が大道(幹線)となります。初めて習焼神社を参拝した頃は、県道に架かる「天井水路」脇に絵図の「堤」が遊水池跡としてありました。現在は天井水路が取り壊されたために、当時の景観は残っていません。
下方にある「馬場」で、『画詞・旧記』に出る笠懸が行われたのでしょう。現在の流鏑馬社辺りと言われています。