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神使「御頭祭の異聞」 Ver'13.5.13

サナギの鈴 中世では、大祝の代理となった神使(おこう)が、御杖と宝鈴(写真)を携行して湛神事を行いました。
 その祭礼に奉仕した神使御頭(しんし・ごうしおんとう)が有名無実となって湛神事が廃れると、新たに制定された御頭郷が、「一日湛神事」とも言える酉の祭(御頭祭)を担当するようになりました。
 江戸時代も中期になると、御杖が御杖柱に巨大化するなど、その内容も変わってきました。それに伴って神使についての奇怪な風聞が広がり、古文献や口碑として伝えられています。

文献に見る「神使」

『神長官守矢史料館しおり』 「茅野市神長官守矢史料館」に置いてある冊子です。200円と手頃なので、多くの人が買い求めているようです。私の本棚にも収まっているその『しおり』から、関係する部分を転載しました。

前宮十間廊での祭祀
 こうした狩猟祭祀の部分のほかは、なかなか意味がとりづらく、謎にみちている。たとえば、おこうという紅の着物を着た子供を御贄柱とともに押し上げ、その後、立木に縄で縛りつけるのは何故か※1。かつてはおこうは殺されたと伝えられている※2

 ※1は、駒込幸典[他]編『菅江真澄の信濃の旅』をそのまま受け売りしたもので、※2は、地元に伝わっている「口伝え」です。ところが、“しおり”という簡便な情報源であるのにもかかわらず、「縛る・殺す」がさも真実のようにネット上に広がってしまいました。

『諏訪神社祭典古式』 解釈の仕方で“誤解を招く”ような例を拾ってみました。以下は、明治期に書かれた同書から〔酉の祭〕の一部です。内容は、『画詞』などの古文献から拾い出した古式を、式次第のように並べたものです。

次 介・宮付に片柏宛参す馬の左へすつ
次 神使皆馬に乗て打立
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』

 御頭祭を書いた本の中に、新しくは「神使を馬の向こう側につき堕とす(突き落とす)」、古くは「打擲(ちょうちゃく)の躰をなす」という記述があります。これらの奇怪な話は、この「すつ・打立」辺りから広がっていったように思えます。
 これは、「飲み終わった柏葉の盃を馬の左側に捨てた。その後に、内県と大県を担当する二組の神使が馬に乗って出発した」という意味です。年代不詳の『神長神事次第書状』では「馬の左に捨て候」、『嘉禎神事事情』には「御柏已(のみ)(へ)手向(たむけ)申す」と似たような文言があります。

 ここで取り上げた「馬の向こう側につき堕とす」とある文言は、考古学の著名人が書いたとあって、多くの歴史書が引用しています。しかし、本人が出典とする『画詞』にはその記述はありません。
 ところが、同じ『画詞』でも、一般には出回っていない〔神長本〕にありました。

四柏に酒を手向(たむ)く、之を馬の左に堕す

 ただし、「“堕とす”のは柏盃」であることは言うまでもありません。

『洲羽事跡考』 旧高島藩の藩校「長善館」藩儒であった勝田九一郎正履が書いた『洲羽事跡考』は、嘉永から文久(1850年代)のものとされています。ここに「蛇体と称す誣事の事」の章があるので、原文の雰囲気を壊さない程度の常用漢字に替えて紹介します。

【誣事(ふごん)】事実をゆがめたうわさ
 我大神を勿体なくも蛇体と諏方宮の縁起に社僧の記せし事は(中略)
 神使というもの・御まな板なおし(※マナ板制作者?)等も俗に人を牲(いけにえ)とせしよう古く言い伝えけるに、藤縄にて昔は縛りけるにその跡長く失せかねて三とせ(年)の中には死すると言いて、人々恐れ忌みしと古老は申しき。なお、まな板なおす者も命長きことなしと言う。そのまな板二人してようやく捧げるほどのものなり。
 この説について考えれば、六七百年前のことにや、その後の代にやこの前宮の辺りに一條(※匹)おろち(※ヘビ)棲みて神と偽り人民をたぶらかし、かかる事をせしにやとも思わる。
 十三、四の稚児赤き袍をつけて人牲のまな板に据えられてと言う事は古き作り物語にも見えしと覚えぬ。されば、かかる例などにつきて神は蛇体なりと記しけんと思いぬしけんとう(見当)の祀りの事・神使の事、祭祀の大要と申事はしばらくここには俗説について俗説をもって證(証)とはせる也。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第四巻』

 後半の「十三、四の稚児…」は「神使の具体的な姿」と補足して、マーキングした件(くだり)は一度は何かで読んだことがあるかと思います。そうです。「百日の行をさせた上で、藤蔓で後手に縛って馬に乗せる。藤蔓の痕が容易に消えないので三年の内に命を失ってしまう」という、ネットでよく見られる文言です。
 これもかなり刺激的な内容ですが、精進潔斎は「一カ月」なので、風聞としてもその“価値”が半減しています。諏訪では輪番の御頭郷で奉仕するので、どの郷村でも「一ヶ月の精進」は周知の事実です。そのため、伝言ゲームと同じで、諏訪以外の遠地で成立した話であることがわかります。

『信濃奇勝録』 井出道貞が天保5年(1834)に成稿した地誌です。

(前略) 是を御夘(こう)杖又御杖柱と云、此柱を飾立て神使の駈騎(かけのり)あり、藤皮を襷(たすき)としはんひ(半臂)とて腰に二丈五尺の麻布(こうはら)を付神原(ごうばら)を乗回す、此時参詣の群衆声を掲(あげ)て騒(さわぐ)を御手払とて祭の終とす、此祭様々の式あり、俗に御俎板揃(おまないたそろえ)と云、
信濃史料刊行会編『新編信濃史料叢書 第十三巻』

 内容は“その通り”ですが、これを引用して脚色したような本が幾つかあります。

『信府統記』 松本藩が編纂した享保9年(1724)とある『信府統記』に「諏訪郡」のことが書いてあります。諏訪神社に関係する中から、「当社の祭礼は毎年酉の日なり」で始まる御頭祭の部分を紹介します。(カタカナをひらがな・旧字を常用漢字に替えて読みやすくしてあります)

 その年の頭村(※御頭郷)より十歳以下の男子を立て御公殿(※神使)と言う。これ大祝部の輿舁(こしかき※輿を担ぐ人)の類い軽い神職の子なり、前宮の内に入れて七日間通夜させ、祭りの日に至れば出して葛を以て搦(から)め馬に乗せ、前宮の西南の馬場を引き廻し打擲(ちょうちゃく)の体をなすこの時御公殿の先へ明神の神剣を持つ、これ根曲りと言う御太刀なり、此人神職両奉行の外なり、この剣にて藤を切る、総じて神事に用ゆる藤は田部村に藤島と言う所の藤用ゆるが定例なしとぞ、その後三間ばかりの大松明を台に据え火を点けて燃え上がる時、参詣の群衆声を挙げこれをはやす、松明尽きるを御手はらいと言うを祭事の終わりとなす、
信濃史料刊行会編『新編信濃史料叢書 第六巻』

 藩の公式文書なので、江戸時代に「打擲の体をなす」を読んだ人は「そうなのか」と信じたに違いありません。現代でも、余りにも“魅力的な文”とあって飛びつく人がいるのは間違いありません。私もその一人でしたが、内容にいくつかの矛盾が見られるのでその圏外に踏み止まっています。
 以下に、首を傾げてしまう部分を並べてみました。

 このような疑問点が見られますから、『信府統記』は、「松本藩の御頭祭に対する認識がこの程度だった」ことを証明する“重要な資料”ということになります。『信府統記』は“松本藩の国勢調査”ですから、「他藩の祭礼」など「聞き取り調査」で済ませたのでしょう。

『顯幽分兩記』 嘉永(1848-1868)の頃に書かれた松澤義章著『顯幽分兩記』です。

酉の日赤き色の装束したる人を藤の蔓もて縛て馬に乗て御祭庭を引渡し馬より下し積置る薪に火を放ちたまうは昔大同といいし年のころ陸奥国の安倍高麿と云いし者国に…太古の世火をもて人を焼は罪人に限りときけり或は…賊首高麿を誅し其黨(党)を平らけたまう御稜威を末代まで傳たまう御儀式なるへし、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 〔春の部〕の一部ですが、神使は、ここでは縛られて火あぶりにされています。これは、前記の『信府統記』にある「打擲ノ躰ヲナス、其後三間ハカリノ大炬火台ニスエ、火ヲツケテ燃上ルトキ…」を、「(神使を)大炬火台ニスエ」と誤読したものに違いありません。

『古事雑録(?) 伊藤麟太朗著『新年内神事次第旧記』の〔諏訪社國祭の由来〕から抜粋しました。これは、神使ではなく「行六使」についての記述ですが、ここに出る「稚児を落とす」もたまに見かけます。

原典が確認できないので文献名は(?)としました。
神長官の古事雑録に載せられた記事は、頗(すこぶ)る面白いものである。

「四月八日チゴヲトシの神事という、社参人チゴヲ馬ヨリ落シナガラサワグト也、行六使ト云者兒ノ舞ノ師ヲシタルトナリ、…」

 すでに気が付いていると思いますが、日付が4月8日なので「上社神宮寺花会」の神事であることがわかります。落とされるのは寺の稚児ですが、なぜなのかはわかりません。

 これより、昭和の書籍から拾った「神使の奇妙な記述」になります。

『御社宮司をたずねて』他 「“一年神主”を広く伝播させたのは今井野菊さんの“功績”」と書くのはためらいがありますが、関係する部分を抜き書きしてみました。

 そしてこの祭典の高潮の中に「おこうさま」は神に召されて行った伝える。この時一般参詣の群衆は厳粛な神人警護のうちに火影に、巨樹のくらがりに“ざわめき”ながら見守り見物していたという
『御社宮司をたずねて』
 喚声を挙げて走る群衆と祭典の中に、おこうさまは神に召されて行った、と伝える神秘絢爛の大みまつりであった。
『信濃一之宮 諏訪大明神前宮遺蹟』

 今井野菊さんは多くの著作を出していますが、前記の本以外にも表現を少しずつ変えた同じような記述が見られます。よく読むと、いずれも「伝える」という言葉で推測の表現をしていますが、講釈師のように(自分で)脚色した表現には「んー(それはないよ)」と言うしかありません。ところが、この記述をそのまま“素”にしたと思われる書籍が広く出回っています。

『富士見町史(下巻) 研究紀要第二号』 「平成十六年度に刊行予定の町史(下巻)編纂の基礎になるもの」とあるので、“下書き”のようなものでしょう。ここに収録してある「〔宗教〕神社」から、[諏訪大社上社の祭事]の一部を転載しました。

 『諏訪大明神画詞』『神長守矢家文書』等によれば、前宮における神事がすすみ饗膳の儀が十間廊で行われる。このとき参会した人々は、所持する榊に髪を結び付けて奉献する。神長はこれを合わせて御杖(みつえ)とする。
 御杖は自分の命を捧げるという意味で、この髪を結び付けたものを「御杖柱」というが、御贄柱のことである。饗膳が進んだ頃、神徒(こうのと)の中から選ばれた童子に神長は御杖柱を背負わせて馬に乗せ、夕やみ迫る頃、松明の燃え上がる中、雅楽のしらべと共に神殿の東、御帝戸屋(みかどや)から出発させる。
 こうして御杖柱を背負って県巡(あがためぐ)りに出た神徒は、神に召されていき帰ってくることがなかったという。御贄柱は人柱のことで、死んで神の子として生まれ変わってくるとされていた。
 御頭祭は、獣の生贄を神に捧げるばかりではなく、人をも生贄にして神を祀るという原始信仰のあらわれである。

 「県巡り(廻湛)」は中世の神事です。ところが、その時代では「秋の県巡り」がありますから、神使を“殺して”しまってはその神事が遂行できなくなります。それ以前に、中世と江戸時代後期、御杖を御杖柱・御贄柱と混同しているのが問題です。
 次は、“正式版”長野県諏訪郡富士見町編『富士見町史』から、「狩猟神事と神」の一部を抜粋したものです。

 昔は神事が終わり、饗膳の儀が十間廊で行われた後、参会者の髪を結びつけた御杖柱(おこうばしら)を、神徒の中から選ばれた童子に背負わせ、馬に乗せて夕やみ迫るころ、松明の燃えあがる中、雅楽のしらべと共に、県巡りに出発させた。その昔、この童子はふたたび帰ることがなかったといわれている。
 酉の祭りは、時代とともに幾変遷しているが、現在も鹿を生贄にして神に供することに変わりない。

 字数の制約で省略せざるを得なかったのか、または表現の不適切を指摘された(または本人が自覚した)のかはわかりませんが、時代を「昔・その昔」とボカし、「ふたたび帰ることがなかった」となっています。いずれにしても、地元でも“この”ように捉えている研究者が多くいることに驚かされます。

口碑でささやかれる神使の“最後”

 文献にある以外に“いろいろと”とあるのが伝承(口碑)ですが、その多くは明治以降の「聞き取り」です。今でも、明治以前は諏訪神社の神官だった人(の家に伝わる話)・学校の先生・実名を挙げた古老などの「談」が書き留められています。
 このような話は誰もが飛び付く奇談ですから、尾ヒレが付くのは古今に限らない自然な流れでしょう。今となっては生き証人はいませんから、改めて検証することはできません。

 最後に、宮地直一博士が『諏訪史第二巻後編』の中で書いている一文「神使を縛する一條は、前掲『歳中神事祭禮當例勤方之次第』にもその通りに見えるので、襷のかけ方がいかにもその身を縛るように思われたのであろう」を挙げておきます。

 最新の情報として「御頭祭のFAQ」があります。以下のリンクで御覧ください。