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御頭祭(酉の祭) 4月15日 (Ver 27.9.24)

 御頭祭(おんとうさい)の名称や内容は、時代によって大きく異なっています。このサイトでは、“誤解”を避けるために「中世・江戸時代」などと時代区分を書き入れています。

神使御頭と御頭祭

「御頭」とは

【御頭】中世には氏人や信仰者が輪番で祭事の費用・労役を負担し、これを「頭番役」または「頭役」と称し、この祭事を「御頭」と言った。
諏訪市史編纂委員会『諏訪市史』

神使御頭(しんしおんとう)

 諏訪神社上社の祭祀が隆盛を極めた鎌倉時代では、旧暦3月の初午から13日間をかけて「春祭」が行われました。

御頭祭「十間廊の前宮ネコ」
諏訪大社上社前宮の十間廊「鹿頭とネコ」

 この期間中に、大祝の代理である神使(おこう)が「外縣(ととあがた)・大縣(おあがた)・内縣」と別れて、遠近在の各地を巡回し廻湛神事を行いました。
 この神事は、四頭ある御頭の一つ「神使御頭」が遂行し、信濃国中の神氏および上社の五官と諏訪十郷が奉仕しました。しかし、北条氏の滅亡と続く戦乱で、神事は有名無実になりました。

御頭祭

 慶長19年(1614)。高島藩主諏訪頼水は、この神事を再興するために、諏訪郡内を15組に分けた「御頭郷」を制定しました。これにより、藩内の御頭郷が輪番で祭礼に奉仕するようになりました。すでに神使の廻湛は廃絶していたので、酉日の大御立座(おおみたちまし)神事のみが行われました。これが今で言う「御頭祭・酉の祭」です。

上金子村の二組を含む。

(平成の)御頭祭

神輿の渡御(わたりまし)

 御頭祭は諏訪大社固有の神事です。その古式に倣い、本宮から1.5キロ離れた前宮の十間廊に出向いて五穀豊穣を祈ります。

御頭祭の神輿 18.4.15 明治以降は、御霊代を神輿に乗せて“一日遷座”をする方式に替わり、それが現在まで続いています。
 神輿は、茅野市泉野の「中道(なかみち)」と「槻木(つきのき)」両区の氏子が担ぐのが慣例です。その衣装はショッキングイエローとでも言えそうに目立つ「黄丁」です。

神輿は大祝の代役

 前宮に到着した神輿は、十間廊の上段の間に安置されます。江戸時代中期の文献には、「上段の間中央に高麗縁(こうらいべり)の菰(こも)畳に鹿皮が敷かれ、その上に大祝が着座した。左には太刀持ちが控え、前には鹿頭を載せた俎板が5枚横一列に置かれた」と書かれています。そのことから、神輿(御霊代)が大祝の代役ということになります。因みに、ここに出る「太刀」は「根曲の剣」のことです。

 明治5年に、大祝を始め神職の世襲制が廃止され、中央から派遣された宮司が祭主となりました。そのため、代替が効かない大祝不在では、その代わりの“システム”が必要となります。そこで、苦肉の策として作り上げたのが「神輿に諏訪大明神の御霊代を乗せて前宮へ御渡する」という現行の行列でしょう。これは、御頭祭に限らず御射山祭や他の神事にも当てはまります。

大祝の代役は「御神号」

 “苦肉の策”と書きましたが、細野正夫・今井広亀著『中洲村史』に、後奈良天皇宸筆「諏方正一位南宮法性大明神」と書かれた「御神号」の記述を見つけました。

 このときの勅筆御神号は、そののち一旦失われたが、慶安三年(1650)十一月に、高島藩主諏訪忠恒が江戸で発見して再奉納され、御神宝になっており、三月の御頭祭に大祝が出られないときは、このご神宝が出られたという。

 神輿に納められた御霊代は「後奈良天皇の宸筆」と読んだことがありますが、ここに具体的な文章として確認できました。大祝の代役「御神号(諏訪明神の御霊代)」は、すでに前例があったことがわかりました。このために、頭を悩ますことなく「大祝→神輿というシステム」にスムーズな移行ができたのでしょう。

御杖柱(みつえはしら)

 前宮十間廊に安置された神輿の前に、「御杖柱」と呼ばれる長さ7尺3寸(約2.2m)のヒノキ柱が掲げられます。

御頭祭「御杖柱と権祝邸」
旧権祝邸前の「御杖柱」

 三輪磐根著『諏訪大社』では「檜・柳・デシャ(アブラチャン)・コブシの枝と柏葉を取り付け矢一手を加えて蔓(つる)で結ばれ5尺の五色の絹で飾る」と説明しています。
 現在は角柱ですが、古くは「御杖」と呼ぶ、榊枝に髪の毛を結び付けたものを束ねた文字通りの杖の長さ軽さだったそうです。中世に書かれた『諏方大明神画詞』には、意訳ですが以下のように書いてあります。

自分の髪を二本つけた榊を献じた。神長官がとり集めて一束にまとめ、御杖と言ってこれを捧げた。

 代わって、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』にある『社例記(控)』の一部を転載しました。延宝7年(1679)に幕府の命で書き上げた諏訪神社上社の調書です。

五官祝榊八矛(やほこ)矢一手葛を以て御杖に纒(まと)める、神使之を取り上段に捧ぐ、

 この時代ではまだ小童が捧げることができる「杖」ですから、1680年以降から現在の「角柱」になったことがわかります。各地へ出張する廻湛神事が完全に廃れたので、携帯性に優れた「杖」から、見栄えのよい据え置き式の「柱」に変わったのでしょう。

御贄柱・神使の異聞について

 幕府寺社奉行の“質問”に諏訪神社上社が回答した、安永7年(1778)『諏訪上宮 神事次第大概』を紹介します。長野県『長野県史 近世資料編 第三巻 南信地方』から転載しました。
 問われた内容「これをオン子(おんね)柱と云云々(いう、うんぬん)」を挙げ、以下のように返答しています。

文字は御贄柱なり、土俗これをオンネと云う、是は頭郷精進屋にあり、鹿肉を掛る也、…御贄柱は其当番の郷へ立て、鹿を掛候、其頭郷へ三十日已前(いぜん)に新に萱葺(かやぶき)にて精進屋を建、大祝精進初の神事に出つ、三十日神人毎日祓を修す、祭の諸向(しょむき)(それ)にて調(ととのえ)る、御贄柱は其精進屋の前に建つ

 「御柱」の定義は「を掛ける柱」です。これが「御杖柱」と混同されて、江戸にまで「おんね・おにえ(御贄)柱」として伝わっていたことがわかります。
 「此日オコウというあり云々」には、

生贄にては之無(これなき)、十五歳未満の小童をー人頭郷より指(差)出候、

と、生贄を否定しています。贄柱──神使という
 「藤蔓にて後手(うしろて)にいましめ馬にのせ云々」には、

後手にては之無候、藤の襷(たすき)を掛け、馬には乗せ申不(もうさず)候、

と、縛(いまし)めたのではなく、襷を掛けると回答しています。

 “民間”の記録では、『中洲村史』が上金子の『御頭社方贈物帖』を引用して、文化2年(1805)の御頭祭の中で「御贄掛」を紹介しています。

二月五日「御贄掛」 これは特殊な神事で、今は跡を残さないのでよく分からないが、掘立の鳥居のような形に柱を建て、笠木と貫の間には注連(しめ)が張られ、縦に25本の串(75cm)があり、それに13貫600匁(51kg)の鹿肉が一塊りづつ刺されていたようである。二間梯子が用意されて肉のかけ下ろしはこの梯子を用いた。肉は祭日前から掛け置き、祭日には参拝者までお流れの神酒に肴として分け与えられたものである。

 添付の「御贄柱と拵(つくり)方絵図」には、各々に寸法を書き加えた鳥居状の柱二本と串が描かれ、「御贄柱」「御贄串」と注記してあります。これが『諏訪上宮 神事次第大概』にも載る、御頭郷の御社宮司社の境内に立っていた「御贄柱」です。柱は二間半とありますから約4.5mです。

 情報不足の江戸時代ではともかく、現在でも広く流布している「御贄柱と御杖柱の混同」や「突拍子もない発想」は、『神長官守矢史料館のしおり』が“元凶”でしょう。これに載る地元研究者の“談”は、明治初期の風聞から超発想したものです。
 これらを個人のブログで引用する分には、(何も知らないと)笑われるだけで済みます。しかし、『一般社団法人 日本文化海外普及協会』の〔御頭祭〕を読んで驚きました。ネットで集めた(と思われる)情報を“まじめに”掲載していますから、「日本文化の海外普及とは何なんだ」と首を傾げてしまいました。

※ https://www.japan-pr.org/グループ/神社グループ/御頭祭/

神饌

 前出の菅江真澄が、御頭祭の様子をスケッチしています。

御頭祭「神饌のキジ」
簀巻にされた情けない姿ですが、彼の眼光は鋭くまだ威厳が

 その中に、「鹿頭」は余りにも有名なので省きますが、三方に載せたキジが描かれています。これは、現在でも古例に倣って神饌の一つに加えられています。
 神事終了後に、オーバーオールを着た担当者がキジを抱えて軽トラに乗り込むのを見ました。戻ってきた彼に訊くと、「養殖した御頭祭用のキジで、近く(前宮)だと里に向かって飛び立つので、砂防ダムの近くまで上ってから放つ」ということでした。

『諏方大明神画詞』

 中世に書かれた絵巻物を、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』から紹介します。

祭二 春下
 三月一禩(き)、十三ヶ日神事相続す、当年の神使(おこう)六人立て始む、先ず初午(うま)の日下臈(ろう)二人外縣(とのあがた)大明神をとらす立て、則ち神殿(ごうどの)の巡礼三反の後、今夜大雪にま(舞)うてて、外(との)諏訪郡に発向(※出発)す、勝劣(※優劣)異也と云えとも、其の儀式酉日の大会(だいえ※御頭祭)に見えたり、
 未日、所末戸社十三所第一神事、(後略)
絵 之在
 酉日、神使四人御立御(おたちまし)、神殿(ごうどの)神原廊にして神事饗膳あり、禽獣の高もり魚類の調味美を尽す、今日堂上・堂下槨(かく)外の儀式計会(けいかい※とり計らう)す、所持の榊髪筋一両をつけたり面々に是を献ず、神長(※神長官)とり調えて一束に結び合わせて御杖と号して是をささ(捧)ぐ、又、御宝大鈴のごとし錦の袋に納めて頸(首)に懸く、次に新神使二人内縣(うちあがた)着座、上介(すけ)一人起て大祝の前に蹲踞(そんきょ※相撲の蹲踞)、大祝玉鬘(たまかづら)藤白波を結びて神役の頸(くび)に懸く、神ノ長(※神長官)御杖を神役にわたす、神使ことさら手をかく(※手間が掛かる)、従人是を助けて本座に帰り、下介前に同じ、小縣(おあがた)二人進退又如此(此の如し)、此の間に神使の鞍馬をひ(引)きつ、盃酌出ぬれば四人共に庭上に立つ、巫女等介錯、大祝同じく出て相(あ)う、彼是(かれこれ)床子(とこ)(※しょうじ・腰掛)に付く、大祝言(おおのと)(※大宣)をよみあぐ(読み上げる)口伝あり、神使口(くち)まねをす、其の後御手払(おてはらい)手をたたく、群集の緇素(しそ・僧と俗人)(ことごと)く是に随う、其の声しばらくやまず、内外の竜蹄(りょうてい※駿馬)驚動す、しずまりて後、神使皆馬に乗りて打立つ、此の時神長酒を馬上に捧ぐ柏の葉を閉じて盃とす、神使各四度是をう(受)片柏と号す、其の後出門御門屋と号す、漸く黄昏に及びて内縣・小縣二手、各松明をとりて、楽を奏して神殿槨(くね)外を逆廻る、御杖(おんつえ)神主(こうぬし)役騎馬、御宝或いは御杖に付く・或いは別に持つ、前後親昵(しんじつ※昵懇じっこん)有縁の一族氏人等、歩行にて扈従(こじゅう※付き従う)す、後騎・禄人・宮仕、鳥居の下もうけまつ(設け待つ)
絵 之在
 神殿施繞(せじょう?)座次(ざなみ※席次)に随いて不同也、小縣二反の後、上原に宿して東山を経て下宮(※下社)に至る、内縣一反の後、千野に宿して郡内南方境に至る、三道順礼共に山路を経て往行三日五日を送る、廻神と称して村民是を拝す、(中略)
 丑日、(中略) 神使二手外縣内縣御しつまり(押し詰まり)、落花(※散った桜)風にひるがえり、山路雪をふむ、職掌鞍馬金銀の荘厳無変の見物也、
絵 之在
 寅日、(中略) 又今日小縣神使帰参、六人共に会合す、

 正副3組で計6人の神使が、初午の日に外縣、酉の日に内縣・小縣へ廻湛に向かい、小縣担当の神使は寅の日に帰ってきたことがわかります。また、ここに描かれていた三枚の絵がどのようなものであったのかが気になりますが…。

平成18年の御頭祭

荒玉社祭 御頭祭に先立って「前宮荒玉社祭」が行われます。「なぜこの日」なのかわからないので調べてみましたが、御頭祭を含む一連の神事には「荒玉神事」が見つかりません。

荒玉社祭 『画詞』にある「二月晦日荒玉御神事、神使殿御出仕始」が、一ヶ月遅れとなった御頭祭に合わせて「三月晦日」となり、さらに「御頭祭当日」に変更したと考えてみました。しかし、現在でも2月28日に「本宮荒玉社祭」が行われていますから、古例と“正確に対応している”神事ではないようです。その神事を参観した足で、御頭祭の舞台となる前宮に寄ってみました。

前宮の大幟 御杖柱にも用いられる楊柳があるのを知っていますから、早速カメラを向けて「春遅い諏訪でもようやく花が」を撮ってみました。

御頭祭「前宮の幟」 幟を背景に入れたのは、単に御頭祭に相応しいからということではありません。「朝臣・守矢真幸」さんは、諏訪大社の宮司も勤めた神長官守矢氏の直系で、守矢早苗さんの祖父です。直筆の墨跡を見てから、心を新たにして本宮へ向かいました。

諏訪大社上社例大祭

御頭祭「幣殿の御扉」
御扉が開いている(金襴が下がっている部分)

 10時、宮司以下の神職と参列者は清祓池前で修祓を行った後、神楽殿向かいの石段から四脚門を通って斉庭に入ります。長野県神社庁の献幣使も修祓を済ませ、その後に続きます。
 この後に行われる「例大祭」は御頭祭とは直接には関係ありませんが、今日行われる祭事の一つとして載せました。

「御頭祭」当日は、献幣使と随員の参列を得て神社庁の幣を奉献、本宮で祭詞奏上が行われる。この儀式で注目されるのは、普通は閉じている幣殿の御扉が開かれていることである。本宮から前宮を見通せるようにするためであろうか。
 本宮で例大祭の神事執行、その後「御頭祭」儀式になる。斉庭内にて宮司による神輿渡御の祝詞があげられ、次に神輿内に御霊代を移し本宮より行列を組み、前宮に出立する。
宮坂光昭『大社の祭事記』(信濃毎日新聞連載)

 確かに扉が開かれ、普段は正面の定位置を占める御鏡や金幣は脇に寄せられていました。ただし、金襴が下がっているので「その向こう」を見ることはできません。宮坂光昭さんは「前宮を見通す」と推測していますが、私は「尊神の御在所(神居)を年一回だけ“御開帳”している」と考えています。

神輿渡御

 午後1時、警蹕が流れる中、御霊代は神輿に移されました。いよいよ神輿の出立です。行列は斉庭から四脚門・布橋を経て県道を前宮へと進みます。

御頭祭の行列
 神輿

 先導する神職以降の行列は上の写真をご覧下さい。因みに、右側の社殿は「相本社」です。例年だと、境内の桜が行列に華を添えます。
 部分通行止めを繰り返しながらの移動は、「高遠城址の桜」が見頃とあって、その行き帰りの車も加わり渋滞に拍車を掛けます。行列の人数以上の車を止めての行進は、見学者にとっても“楽しい”ものでした。

十間廊神輿着座

 諏訪大社と御頭郷の神職、各界の代表・大総代・御頭郷総代・氏子代表・諏訪大社玲人が着座します。入りきれないため、回縁にもはみ出したお尻が並びます。
 神輿が上段の間に安置されました。元々神輿など“想定”していない造りなので大混乱でした。担ぎ手は毎年同じ地区が担当しますが、狭いスペースに人数が限られその上重さも加わりますから、例年通りというわけにはいかないのでしょう。
 再び警蹕が流れ、宮司が神輿の御簾を開きます。私は頭を下げていたので、どのような所作をしたのか伝えることはできません。

鹿頭の献饌

御頭祭「鹿頭の献饌」

 通常の品に加え、御頭祭のシンボルとも言える鹿頭部の剥製が加わります。また、“乾物”だけでは味気ないのか、冷凍ですが鹿肉のブロックも献じられます。上写真は動きのある神職がややブレ気味ですが、十間廊端からの望遠とシャッタースピードが1/10という暗い条件では、奇蹟のショットと自画自賛しています

御杖柱は幣帛

御頭祭「御杖柱」 「御杖柱の御手幣(みてぐら)を奉る」の声で、脇に置かれた御杖柱が神輿の前に安置されました。私はその形状と名前から幣帛とは捉えていなかったので、「現在の神事ではそうなるのか」と知識を得ました。
 撮影ポイントを変えようと、一旦十間廊から離れました。下の境内では、神輿・薙鎌・矛・毛槍などの担当者が、所在なさげに待機しています。この日は曇りで風も強くさらに気温も低めでしたから、ひたすら待つだけの姿に同情してしまいました。

神事式次第

 「東山田長持保存会雅楽部」が笙(しょう)や篳篥(ひちりき)を奏でる中、神事は粛々と進みます。

御頭祭

 祝詞奏上・玉串奉奠が終わると、後は撤饌です。再びの警蹕で神輿の御簾が閉じられ、最後は宮司一拝で滞りなく神事は終了しました。
 「特殊神事の御頭祭」と言えど、現在では“これだけ”です。しかし、たまたまの役職で立ち会う参列者はヤレヤレでしょうか。

内御玉殿祭・若御子社祭

 御頭祭が終わると、神職と参列者は直ちに内御玉殿(うちみたまどの)前に移動して「内御玉殿祭(大祭)」を行い、その後、若御子社祭と続きます。『諏方大明神画詞』には、御頭祭を含む13日間の神事・春祭りの最終日に「内御玉殿の神宝を参詣人が見た」と書いてあります。かつての長期に渡る神事の最後を締めくくった「神宝拝観」が、御頭祭同日と簡略化したものの内御玉殿祭として行われているのでしょう。

巳(み)の日、(中略)次に夜に入て、大祝(おおのと)内玉殿(うちのたまどの)に詣(まい)て、宝殿を開きて神宝を出す、諸人競いて拝見す、弥栄(やさか)の鈴・真澄(ますみ)ノ鏡・御鞍轡(くらくつわ)なり、氏人の外影を鏡にうつさず、(後略)
「大祝言」が「おおの(っ)と」なので、「おおほうり」の間違いか。

御霊代本宮へ渡御

前宮ネコの見送り 神輿は再び黄丁の肩に乗り、揺れながら神原(ごうばら)を下って行きました。行列は逆コースを、再び渋滞の“素”を振りまきながら本宮へ戻ります。
 私が“前宮宮付の猫”と呼んでいるネコが、不思議そうに見送っていました。

終了奉告祭

 行列の最後尾に付いて戻ったので、すでに御杖柱は幣殿左(左御神灯の上)に戻され、神輿も正面に安置してありました。
御頭祭「御頭郷代表拝礼」 終了の“報告”ですから、片拝殿に控えているのは、ぐっと減った人数と揃いのハッピから御頭郷の大総代だけでしょう。
 「おーー」と、今日四回目の警蹕が流れる中、御霊代が幣殿の奥に納められました。4時10分、宮司が退下して今年の御頭祭も無事終わりました。


‖サイト内リンク‖ 「菅江真澄が見た御頭祭」