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御頭祭のFAQ(よくある質問と答) '15.5.20

「FAQ」は、Frequently Asked Questions の略です。

前宮と神原跡 中世までは、写真中段の神原に、大祝の館(神殿)がありました。江戸時代になると館は宮田渡に移りましたが、酉ノ祭などの重要な神事は、神原の十間廊で行われました。それは、御頭祭として現在まで続いています。

『安永七年八月 諏訪上社神事次第大概』

 長野県『長野県史 近世資料編 第三巻南信地方』に載る、「諏訪市神宮寺 諏方頼宜氏所蔵」とある史料です。文末に「安永七戌亥(1778)八月松平遠江守殿ヨリ当社神事次第被尋(たずねられ)一社談之上書綴、高島(藩)月番差出、土橋多聞持参」とあります。
 質疑応答の型式ですから、出回っている風聞を「理解しがたい(世を惑わす)」として、時の寺社奉行から質問状が来たのでは、と想像してみました。今も昔も変わらない、と言ったところでしょうか。

 内容は、御頭祭から七不思議まで多岐に渡っています。ここでは、御頭祭のみに絞って転載しました。

■ 返り点がある訓読文を通常の読み方に直し、片仮名を平仮名に替えてあります。縦書きなので、「右…・右の…」は「上」と置き換えて読んでください。よく出る「云々」は「うんぬん」と読みます。※は、私の勝手な解説です。

 諏訪上宮 神事次第大概

本社ノ前に仮殿をしつらい云々

本社の前に仮殿を補理(しつら)う事之無(これなき)候、二拾丁程も隔て辰巳の方に前宮と申す社あり、其所に拾間廊と申す神事屋あり、右酉の祭の儀式、其所にて之有(これあり)候、

当日七拾五膳の備物奉るなり、諸方より献る所の鹿頭、自然と七拾五頭に揃うよし云々

右之通候、

初は鯉、其外魚頭をも備うよし云々

魚・鳥・兎・耳裂の鹿頭大祝へ備う、此外に十二飾魚鳥の備物有り、

右七拾五頭の中、耳のさけたる鹿あるを不思儀とす云々

右の通候、

※上社七不思議の一つ。

又右の内一頭を四間計の柱の上に懸る云々

其義之無(これなき)候、右十間廊に鹿頭は爼に載備る計(ばかり)也、

これをオン子(ね)柱と云云々

文字は御贄柱なり、土俗これをオンネと云う、是は頭郷精進屋にあり、鹿肉を掛る也、頭郷精進屋の事下に委(くわし)く記す、

※御頭郷にある御贄柱と御杖柱(オンネ柱)の混同。

鳶・鳥の類近づき喰う事あたわず云々

右之通候、鳶・鳥の類其上を飛行すれば落、

此日オコウというあり云々

右の通候、文字御神(おこう)と書候、然ども俗称なり、神使(こうつかい)と云、此事下に記せり、生贄にては之無(これなき)、十五歳未満の小童をー人頭郷より指出候、

※現在と同じく、江戸まで「生贄」説が伝わっていた。

百日の行をなさしめ云々

百日の行之無候、三十日潔斎なり、千早をば著不(着せず)、赤き水干をきて、立烏帽子を真綿(まわた)にて包みこうぶる(被る)なり、

※“噂”の「真綿」が気になりますが、何のことやら…。

藤蔓にて後手(うしろて)にいましめ馬にのせ云々

後手にては之無候、藤の襷(たすき)を掛け、馬には乗せ申不(もうさず)候、

※風聞に根と葉が生えるのは、今も昔も変わらない…。

仮殿のあたりを牽き、夫(それ)よりオンネ柱を廻る云々

右の神使を馬にのせ、御(おん)杖を持たせ廻る、オンネ柱を廻るにては之無、右の十間廊の所に神原(ごうはら)と云所ありて廻る也、大祝附添廻る事なし、其外五官祝も不廻(まわらず)

大祝山鳩色之袍(ほう)をかけるよし云々

山鳩色の狩衣なり、

廻り終りて柱の傍七つの小社の内に云々

七つの小社と云事之無候、

又仮殿(かりとの)の内に青山と号して、青葉の附たる枝にて飾もの有りて云々

青山と号する事なし、神事の節、右にも記御杖(おんつえ)と申て四角の柱 寸尺神秘へ、桧の枝・山梨の枝・柳の枝・ヂシャの木の枝 漢字未詳を、五官祝より銘(名)々一種宛出して、其中へ神供等を柏の葉につつみて、右の柱へ飾る事あり、此の柱の品は神秘にて述難(のべがたし)

此前に御爼(まないた)直しと云事あり云々、御爼二枚祢宜(ねぎ)両人にて押合い持云々

此事下に記す、御爼は鯉には非(あら)ず、鴈(雁)を載、大祝へ備え、捧げ出るは祢宜には非(あら)ず、頭郷より両人三十日精進、麻上下にて出侯、雁と庖丁と箸とを載せ、捧出て其向き役人へ下げて渡せば、料理人請取る、

※二人でマナ板の両端を持つのが押し合うように見えた。

爼大さ凡三尺、鯉一献づつ、云々

爼長さ三尺五(、)六寸、幅一尺二(、)三寸、厚さ四(、)五寸、右の通の爼両人にて其年は三十日稽古して、身の執(とり)まわしを習なり、潔斎ならざれば怪我有りと云り、形の儀、執廻し違あれば、其人年の中に凶事あり、

※「包丁式」の作法を一ヵ月練習したことがわかる。

又境内の山に五十駄の薪を積置(つみおく)云云

右の通候、

(さて)、オコウを再(び)馬にのせ、其焚火をまわる、かくて神事終る云云

再は廻不(まわらず)一度なり、神使いを馬にのせ、まわるは前に記せり、上に記す神原を廻る、火の廻るにてはなし、是を御手祓(おてはらい)と云、尤(もって)神事終るなり、

※「御手祓道」の名と跡が残っている。
※“神使火あぶり”説がある。

右オコウの諸向(しょむき)順々八ヶ村より勤て、これをオトウと云 御頭の文字にや、役人オトウ殿と云云々

 オコウ計(ばかり)に非ず、右酉の祭の諸向頭郷と云て、十五郷にて順々之を勤候、神前に於て正月元日蛙狩神事済(すみ)あとにて、御鬮(みくじ)ありて頭郷定る御頭の文字なり、役人を頭殿とは土俗に云えり、頭主(とうぬし)と云う、神人(じんにん)の事なり、
 上に云御贄柱は其当番の郷へ立て、鹿を掛候、其頭郷へ三十日已前に新に萱葺(かやぶき)にて精進屋を建、大祝精進初の神事に出つ、三十日神人毎日祓を修す、祭の諸向夫(それ)にて調(ととのえ)る、御贄柱は其精進屋の前に建つ

※御頭郷(おとうごう)と神使殿(おこうどの)の混同。
※「御贄柱は御頭郷の精進屋の前に建てる」と重ねて書いている。江戸時代も今も、御杖柱を(どうしても)御贄柱にしたい人がいた。

右鹿の頭を献じオコウを出候事いかなる所謂(ゆえん)にや、当日祝詞(のりと)・秡等執行御座候哉云々

鹿頭は諸郡より狩人其の外人々当日献じ、自然に集り候、御神(おこう)の事委しき品者(は)神秘にて述難(のべがたし)

 参考になる事柄を幾つか挙げてみました。

 いつも思うのですが、75頭もの鹿頭…後の処理はどうしたのでしょうか。食べる部位はありませんから、御頭郷の人達が持ち帰って土に埋めたとしか考えられません。

編集後記

 「イヤー、マイッタ、マイッタ」が、『諏訪上社神事次第大概』を読んだ後の感想です。実は、海外まで広がった御頭祭に関する異聞を「どういう発想で…」と呆れながら見聞きしてきました。それに対して、“諏訪大社のサポーター”を自負する私は「なんでそうなるの!?」と、声を文字に代え続けてきましたが、この問答集にすべてがありました。ただし、“この時代では”と前置きが付きますが…。