御田植祭は全国各地で見られますが、諏訪大社上社でも廃絶した御田植神事が大正年間に復活し、現在は6月の第一日曜日に行われています。
初めて見物した御田植祭は、冬の名残とも言える茶色の斉田に、華やかな衣装をまとった乙女の所作が弾ける楽しいものでした。
諏訪大社の各御頭郷から選ばれた23人の早乙女は、本宮幣拝殿の前で奉告祭を済ませると、五百メートルほど離れた斉田へ向かいました。
背後から聞こえてきた「これからが長い」の通り、藤島社前では神事が延々と続いています。ようやく、神職による田植唄に笏拍子や笛の音が加わると、巫女二人による「田舞」が始まりました。ところが、それを見守る関係者の後ろ姿が衝立(ついたて)になってしまい全く見えません。早乙女の赤い蹴出し(けだし)に惑わされて、その姿を正面で撮ろうと、斉田を挟んだ畦に撮影場所を確保したのが間違いでした。
「耕作長」の指導で、馴れないというより初体験と思われる田植えが始まりました。彼女らが恐れているのは、衆人環視の中で泥田に足を取られて転(こ)けることでしょうか。しかし、期待していたその姿を披露することもなく田植は順調に進みました。
早乙女の田植えを赤い蹴出し以上に盛り上げているのが、「足長剛勇太鼓」です。花笠で鉦・太鼓を打ち鳴らし、「昔の田楽もかくありや」と囃し上げています。まぶしいほどの初夏の明るさが、子供と早乙女双方にピントを合わせてくれました。
今日は、非現実的な緋襷緋袴(ひだすきひばかま)が、季節の移り変わりをよそに平坦を描き続けている心の軌跡に変化を与えてくれた一日になりました。
去年は当事者でないため、と言っても毎年そうですが、雨模様に意気込みが削がれて見学を中止しました。今年は、前回見るのを逸した巫女さんによる「田舞」の見学です。前回の教訓があったので高速道路の側道脇に続くガードレールの前に陣取ると、用水路が祭場との間を適度に隔て最適の撮影場所になりました。
雨対策が今日は日除けとなったテントの左側には宮司を始めとした神職が控え、右には早乙女を前列にして諏訪大社大総代がダーク系の色集団となって参列しました。「田舞」は、
神職による田植唄・笛・笏拍子に合わせて巫女さんが舞います。
ビデオ(約8分)は、平成24年6月3日にHDで撮ったものです。風切音が時折入りますが、ご容赦ください。
かつては、大祝や五官を始め多くの社人が見守る中、田楽の歌舞に合わせて「八乙女(世襲で扶持持ちの巫女)」が早乙女となって植えたそうです。以下は『諏方大明神画詞』にある〔藤島社前 田植の神事〕の段です。因みに、「晦日(みそか)」は6月の晦日で、30日に当たります。
ここに出る「大幣流す川辺のみそには」は、一般には「川辺の水に大幣を流す」と解説されています。現代の言葉使いを持ち出すのも無理がありますが、「岸辺の水」ならいざ知らず「川辺の水」は馴染みません。また、「田植え」の最中に唐突に「おおぬさ」が現れますから、「おおぬさ…」以下を飾(説明す)る文が抜けている可能性を思いました。
諏訪に残る『諏方大明神画詞』は、遙か昔に行方知れずとなっている『原本』の「写本」です。書き写す際に、自分もよくやってしまう一区切りそっくりの「抜け」も考えられますから、多少の「?」には目をつぶって大らかに読んだほうが良いかもしれません。
「明治8年頃に、守矢家文書などの古記録を参照して記録・記述した」とある、権宮司 八代駒雄・祢宜 延和彦川編纂『諏訪神社祭典古式』があります。ここに「六月三十日 御作田植」があり、「同日 大宮神事」と書いています。
この文は『年中神事次第』を参照したことがわかりました。現代からは、ほぼ同時代としても差し支えない『年中神事次第』と『諏方大明神画詞』ですから、「御田植祭が終わってから本宮で(大祓の)神事があり、その後に、(清祓池から流れ出る)川に大幣を流した」と再構成してみました。
伊藤富雄さんが『著作集第一巻』で、「三済修禊(みさやまのしゅうけい)」を解説しています。標題は「御射山祭の禊」を説明する中で具体的な例として挙げた『百人一首』ですが、これは「6月30日の大祓(夏越の祓い)」の情景を詠んだものと知りました。
こうなると、私は、「みそには」は「みそぎ(禊)は」の間違いではないかと思えてきました。「大幣流す河辺の禊は、様が変わって、今日の神事は大変珍らしい」と意味が通ります。
改めて読み直すと、「藤島社前 田植の神事」の段には、同日に行っている神事「御田植・大祓(夏越の祓)」と「御作田の熟稻(七不思議)」の三項目が含まれていることがわかります。