宮地直一(みやじなおかず)著『諏訪史 第二巻後編』から、「第九六図 上社遷座祭」とある写真をお借りしました。「昭和七年六月十五日西宝殿より東宝殿へ神宝を渡すところ」と説明があります。
宝殿遷座祭は、諏訪大社では最重要の神事です。しかし、上社では「布橋」という極めて狭い場所で行われるので、離れた場所で、しかも人垣の中で見学するのは無理があります。
また、宝殿遷座祭は式年造営に関わる神事ですから、今回を逃すと6年先になるという事情があります。遷座は未来永劫に続きますが、私の持ち時間では、気力を考慮すると今回が最後のチャンスになりそうです。その機会を確実にするため、諏訪大社に撮影許可を申請しました。
清祓池前で修祓が行われました。お祓いを受けた後、一同は神楽殿−四脚門ラインの石段を上がり、東西宝殿の間を開けた布橋に着座しました。
満を持したかのように太鼓が打ち鳴らされると、「ただ今より、平成22庚寅(かのえとら)年式年造営御柱大祭諏訪大社上社本宮宝殿遷座祭を斉行します」の声が流れました。
神職は、全員「麻の木綿(ゆう)」を肩から斜めに掛けています。宮司と権宮司は襷(たすき)掛けで、冠にも木綿が巻かれていました。
東宝殿に6年間納め置かれた神宝が神職の手で西宝殿に移されます。この時、神宝とそれを担当する神職の名前が紹介されます。
「御神輿遷御」の役割分担が「召立(めしたて)」として紹介されます。その中で「ほうよ」が意味不明でした。これは、自宅で調べて「奉舁(ほうよ)は神輿を担ぐこと」と知りました。
警蹕(けいひつ)と奏楽に包まれての神輿の奉遷です。前後に付いた神職に護られ、西宝殿に進みました。
この場では「お頭をお下げください」となります。しかし、前回はこのシーンがテレビで流れましたから、畏れ多くも撮影し、このサイトで紹介することにしました。本来なら、撮影は勿論のこと、見ることもできないはずですが、「御霊代」ではない「神輿」で、それも覆いが掛けられているので許されるのでしょう。先月下社の宝殿遷座祭を参観しましたから、諏訪大社が、上社・下社(神輿・御霊代)の宝殿遷座をどう位置付けているのかわかるような気がしました。
神輿を運ぶ神職は輪にした白布を肩から担ぎ棒にまわし、不測の事態で手を離しても落下しないように備えていました。かなり重そうな姿からこのように解釈しましたが、別の意味があるのかもしれません。この位置からはこの写真が精一杯で、宝殿のどの場所へどのように安置したのかはわかりません。「布橋」の語源とされる廊下に敷かれた「布単(白布)」は、神輿が通過すると直ちに巻き取られました。
宮司が奉幣し、次々と遷座の神事が続きます。
「本庁使は長野県神社庁長・戸隠神社宮司」と紹介された本庁使が、神社本庁から持参した「本庁幣」を奉幣しました。聞き慣れない「本庁使」ですが、神社本庁のサイトに「名称は本庁使とし、従来の遣幣使の職務を兼ねる」とあるので、旧遣幣使とわかりました。
以下に、音声のみのビデオから文字を起こした「宝殿遷座祭神事式次第」を紹介します。
「平成22庚寅年式年造営御柱大祭諏訪大社上社本宮宝殿遷座祭をお納めいたします」の声で、私には(多分)「最初で最後の宝殿遷座祭」が終わりました。
宝殿の神輿は、天正12年(1584)に大祝家を継いだ諏訪頼忠が新造したとあります。神輿を覆う金襴は、毎回藩主から奉納された新しいものを重ねたと言いますから、単純計算では数十枚ということになります。「古いものはすでにボロボロ」だそうで、かつては、遷座の際に「落ちた切れ端」を競って拾ったそうです。しかし、現在の状況では不可能です。
下社の宝殿遷座祭では、「第一御霊代・第二御霊代」が遷座します。上社は「御神輿遷御」ですから、言葉の上からは宝殿の中に納められている神輿と神宝を遷すということになります。これが大事で、「諏訪大社」では、本宮の御霊代はあくまで神居の中に鎮まっていると“考えている”ことがわかります。
そうなると“空神輿”はあり得ないので、中に何が入っているのだろうと詮索したくなります。諏訪神社から諏訪大社までの時代の中で、誰か見た人はいるのでしょうか。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』にある『守矢頼眞書状案』に目を留めました。「勅使請取御所望之時、…其案也…」と前書きがあります。
「後奈良天皇直筆の経を宝殿に納めた」とあるので、下社の「第二御霊代=神爾=御朱印」を例に取れば、「心経」が宝殿内の神輿に納められた考えました。
その30年後に織田軍によって上社は焼き払われましたが、「神輿は守屋山に避難させた」とあるので、御経は無事だったのでしょう。神輿の新造は「長期に渡る“避難生活”で痛んだ」のが理由と考えられるので、神輿の完成と共に経を遷して宝殿内に納めたのでしょう。これが金襴の中に今でも存在しているとしました。