諏訪教育会編『復刻諏訪史料叢書 第四巻』に、〔諏訪神社并社家文書〕として宮川村守矢眞幸氏蔵『神長神事次第書状』があります。
神長官から擬祝に宛てた書状(控)ですが、中世の御頭祭を式次第として書いています。神長官が練りに練って十項目にまとめたと想像できますから、当時の祭事を流れとして見るには手頃ではないかと紹介しました。
この文書は、前文と文末にある「一、…」から、神長官が、病気など何らかの事情で擬祝に神事の代行をお願いしたものと思われます。
まずは前文です。『諏訪史第二巻後編』にある〔擬祝宛神長書状〕の影印を読んでみましたが、初めの四文字「神津ヶい(神つかい→神使)」で早くもつまずいたので、冒頭に挙げた翻刻文を以下に用意しました。
私なりに補足を加えてみましたが、これ以上は無理という結果になりました。
神つかい(神使)殿御いりかいる、又ゆ(結?)い申候ハヽそれへ御出候て御そき(御衣着)き(着)こしめし候へく候、みそきはこんとの(権殿※権祝)より出 、
おつみつ(二三?)に御たつね(尋)候へく候、
以下が、今で言えば、十間廊に貼り出される式次第です。一通り読めるように補足しましたが、(わかる人にはわかるということで)個別の語句を解説するのは止めにしました。
一番 御杖(みつえ)御前(※大祝の前)へ、神使殿(かみつかいとの)に持たせ申し参る
二番 八矛(やほこ)の矢西門へ参り御腰物まいる、申し立てあり、さて持ちて帰り雅楽(がこう※五官配下の神人)にあず(預?)べし、
三番 御手幣(みてぐら)・柏(かしわ)参る、御杖飾り申す、
四番 御杖に向かって申立、
五番 神使殿に木綿(ゆう)掛け申す、二人ながら(※とも)に、
六番 大祝言(おおのっと)、御手祓い、
七番 御宝(※鉄鐸)大御門(おおみかど)へ入申す、御宝懸(頸?)に掛けさせ候 、神使殿両人馬に載せさせ申す、
八番 宮付馬右より柏四つずつ合わせて八つ取渡し、御杖に挿させ申す、又四つずつ介・宮付に参らせ、馬左に捨て候、
九番 「御幣」呼ばわるは有賀雅楽の役、
十番 大祝殿に御幣・御手幣(みてぐら)参らせ、又受取り申し候(そうらい)て、雅楽に持たせ、介の御馬前に行き候て、祝言(のっと)申す、御手祓い神長殿始め候、さて御参りあり、
一、小御立座(こおたちまし)の御役も、
一、大立座(おおたちまし)の御役も、
一、大方のあいの御酒過ぎての御役も同じ事、少しも変わるべからず候、万事頼み入申候、やがてかの日記返し可有(あるべく)候、人に御見せまじく候、 神長
擬祝殿
「かの日記」は、御頭祭のマニュアルでしょうか。神事の虎の巻を渡すのは、神長官にとってはかなりの冒険だったと思います。五官の中では下位の擬祝ですが、この時代では血縁が濃かったなど、「この人なら」と信頼できる関係であったと想像するしかありません。