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御頭祭の包丁式「白鷺と白兎」 '13.2.7

 著者名なき引用文は、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に集録されている文献です。

鴨羽盛

 六車由美著『神、人を喰う』に、「諏訪大社御頭祭の供物の展示」とある「鹿頭・兎の串刺し」に並んで、香取神宮大饗祭で行われる「鴨羽盛調製」の写真が載っていました。内臓を取り分けた後、硬直した筋肉や骨を強引に曲げて「飛ぶ姿」に仕立てたカモを神饌にする、と説明にあります。
 現在も神事の一つとして(参列者の前で)神職が“加工”するとありますから、鹿の頭で名を轟かせたかつての諏訪神社上社も真っ青というところでしょうか。

“兎盛”

御頭祭絵図
内田ハチ編『菅江真澄民俗図絵』(一部)

 天明4年(1784)に御頭祭を見学した菅江真澄は、『菅江真澄民俗図絵』に二枚のスケッチを残しています。その一枚が、鴨羽盛を連想させる“立ち姿”の「ウサギの串刺し」です。
 茅野市神長官守矢史料館ではこの絵を参考にして復元したものを展示していますが、あの太さの木棒では差し込むのにかなりの力を要したことが想像できます(この絵では鉄串に見える)
 しかし、その“事例”はこの絵だけで、文献にはまったく見られません。そのため、ウサギの串刺しは本当にあったのかという疑問が生じます。

御頭祭で行われた包丁式

 菅江真澄は、『民俗図絵』とは別に、この時の様子を『すわの海』に残しています。「上下(裃)着たる男二人、ものの肉をまな板にすえて持ていずる。足どりなど、故やありけん」と描写しているので、その後に「何かの儀式が行われた」ことが推察できます。
 明治初期の記録『上宮神事次第大概』です。

大祝に雁を供する。その次第は、頭郷より選ばれた両人が三十日間精進し、其の間に身の執り廻しを習う。当日は麻上下を着けて式に臨み、(長三尺五六寸、幅一尺二三寸、厚四五寸)に雁と包丁と箸とを載せ、之を捧持して大祝に備え、終わってその向きの役人を経て料理人に渡す。両人潔斎を懈(おこた)る時は怪我をなし、また形儀(ぎょうぎ)執廻しに相違ある時は、年中に凶事を受くると称せらるるという。此の作法は包丁式の型を伝えたもので、恐らくは中世期に於ける饗膳式の一部に属するのであろう。但し、当日雁の供せられたことは、満実書留文明二年の條にも見える。

 ここで「御頭祭の包丁式」が出てきました。共通した「上下(裃)・両(二)人・俎板(まないた)・雁(肉)」から、江戸時代の御頭祭では「包丁式」が行われていたことがわかります。

 これについて、文安5年(1448)『大祝職位事書』では「御はつほ酒何方へも参らせす候。瓶子二、はうちょう人方へ別一、神長方より越候」と書いていますから、古くより、包丁式の作法をわきまえた料理人がいた可能性があります。

 『伊藤富雄著作集 第一巻』に〔諏訪上社と金井社の話〕があります。この中から「この記録は大体江戸時代の中期頃のものと思われるが」とある『三月酉御祭礼御山かさ(飾)り式膳』の一部を抜粋しました。

割子足内七組箱入角
雁、真那板、箸、包丁二人にて直し、上下小袖にて相勤む、うど、ところ(とろろ)、くり、かや、くるみ、かき、こんぶ、箱入

 著者には「包丁式」という認識はなかったと思われますが、この記述からも「包丁式があった」ことの裏付けが取れます。

包丁式は現在も行われている

 各地で行われている「鯉の包丁式」は歳時のニュースとして時々流れますから、映像として御覧になった方も多いと思います。また、包丁式の格式で最高位にあるのが「鶴」で、天皇一家の前で「舞鶴(まいのつる)」と名付けられた宮中儀式「御前(御膳)庖丁式」が現在も行われているそうです。
 血生臭い話が続いたので、ここで“小休止”としました。


 『三月酉御祭礼御山かさり式膳』にある「割子足内七組箱入角」に興味を持ちました。これは七つに仕切られた足付きの四角い折詰のことですから、今で言えば「仕出し弁当の容器」に相当します。これに、ウドから始まる所定の七種を取り分けたのでしょう。菅江真澄が書いている「小さき折櫃に、モチ・カヤ・トコロなど入りて、一人一人に取り据えたり」は、正にこのことだと合点しました。


御頭祭の神饌「置鳥と置鯉」

 永禄八年(1565)の奥書がある、通称『信玄十一軸』と呼ばれる巻物があります。その中の一つが『大立増(おおたてまし)之御頭規式』で、「廃れた御頭祭の神事はこのように再興しろ」と具体的な手順を書いています。

一、三月一の御頭、初の酉之日十間廊于(に)於いて之(これを)勤。規式之次第、二重手懸・鶴之抱行器・同菟置鳥・置鯉・同拾二合是等者(これらは)厳物(いかもの)成。御頭終而(して)大祝殿へ上がる。

 ここに挙がる「同菟(菟之抱行器)」が前出の“ウサギの串刺し”に相当しますが、その詳細は〔特殊神事メニュー〕の『鶴之抱行器・菟之抱行器』で御覧ください。続いて「置鳥・置鯉が十二合」とあるのが、文字通りの「マナ板や三方に置いた鳥と魚」と考えられます。

雁・白鷺

 再び登場する菅江真澄の見聞記には、「南の隅なる処に、しら鷺・しろうさぎ・きぎす(キジ)・山鳥・鯉・鮒・いろいろの肉塊…」とあります。
 細野正夫・今井広亀共著『中洲村史』には、文化2年(1805)の上金子『御頭社方江贈物帳』の内容を紹介した一文があります。御祭礼入用として「小真那板七五枚(鹿の頭七五を盛るため)…雉子八・雁一・(三ノ丸より奉納のもの)…」とあるので、この頃は菅江真澄が見たものと同じ内容の物が揃えられたことがわかります。

古式の神饌

 明治8年頃に編纂された『諏訪神社祭典古式』の「三月酉日」に、「神供」として以下の神饌が書き出してありました。

(のし)四つ 干鹿 白兎 白鷺 荒布(あらめ) 干鹿以下の四種は檜葉にて籠を作り之に入れ四方臺に盛る 御饌 玄米を以て炊き大組足臺に高く盛る 赤魚二つざし三十二串 菱餅二つざし拾弐串 柿 串柿廿四串 赤魚以下の串物は御饌の高盛に挿し立、(後略)

 この書の編纂は明治初期ですが、あくまで祭典の「古式」を記録したものです。その具体的な記述から幕末(現行)の様子を記録したものに違いありませんが、江戸時代全般を通じての正式な規式のように思えます。因みに、『菅江真澄民俗図絵』とは85年の開きがあります。

四方台 左は「野出神事」の神饌です。穴が四方に空いた四方台にイチイの葉が敷かれています。
 これを『諏訪神社祭典古式』にある籠状にしたヒノキの葉に替え、シカの干肉・ウサギ・シラサギ・海藻を置けば、「神供」はこのイメージとなります。

御頭祭絵図
内田ハチ編『菅江真澄民俗図絵』(一部)

 次の「御饌(みけ)」は、「飯を山盛りにした大きな足組台に、串に刺した魚・菱餅・柿を添える」形ですから、正に『菅江真澄民俗図絵』の如くと言えます。
 しかし、この“古式”では、兎を含めた四品は四方台に置くと書いていますから、(この時代では)「ウサギの串刺しは無かった」ことになります。
 その面倒な“加工”ゆえに簡略化された可能性もありますが、菅江真澄は、(見たのではなく)聞き取ったものを絵図化したことが考えられます。

明治以降の神饌

 下諏訪町誌編纂委員会『下諏訪町誌』に、「明治九年二月改正規約書の旨を守り…」とある『御頭郷勤方簿』が載っています。

一、四月十五日御頭祭に付、左の入用品相揃え前日上社へ備置べき事

一、洗米 籾各一升(略)鹿肉三貫匁(略)白兎一疋 白鷺一羽 雉子一羽(後略)

 これは諏訪神社ではなく御頭郷の文書ですが、この時代でも「ウサギとシラサギ」は必須のようです。因みに、現在の御頭祭では鹿肉とキジを献饌し、キジは神事後に放鳥します。